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更新日:2021年11月16日
永禄11(1568)年の今川氏の滅亡以後、二俣城と鳥羽山城は徳川家康が領有していましたが、三方ヶ原の戦いがあった元亀3(1572)年、二俣城は武田信玄によって攻略されました。その後、長篠の戦いがあった天正3(1575)年まで徳川氏、武田氏が二俣城をめぐり激しい戦を続けますが、徳川方は鳥羽山城に本陣を置き、武田方にあった二俣城を攻め、奪回しました。
天正18(1590)年、家康が関東へ移り、二俣城に豊臣氏配下の堀尾氏が配属されました。二俣城と鳥羽山城の主要部に石垣が作られ、二俣城には天守が築かれました。二俣城は戦の施設として、鳥羽山城は領主が日常生活を送る場として整備されていったとみられます。「別郭一城」と呼ばれ、二つの城は一連の城としてそれぞれの役割を担っていました。
慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いの後、両城は廃城となりましたが、その城の跡からは遺構が発見され、今でも調査が行われている部分があります。
両城の跡地は見学できるのじゃ。ウォーキングや、桜、紅葉なども楽しめるスポットなのじゃよ。
広報はままつ2016年2月号掲載
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