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更新日:2021年11月30日

おらが町の自慢の一つ「一等三角点」

 

三角点の歴史

 

新年号となった明治4年(1871)工部省工学寮にイギリス人5名を雇い入れ、指導の下、東京府下宮城内(現皇居内)富士見櫓に第1点を設置、順次13点の三角点標を置いて三角網を構成し、小規模ながら日本の地形図三角点測量と近代地形図制作の始まりを告げました。私たちが住んでいる日本は海に囲まれ、山あり谷ありの隆起にとんだ地形です。その立体的な地形の位置関係をより正確に求めるための技法として、全国に約200km間隔の14か所を基線として選び、基線測量が始まりました。

【浜松市内の一等三角点】西区神原町の一画に一等三角点があるのは、明治13年、平坦でかつ見通しがきく広い土地を基線として選定、南端点「神ケ谷」、「北端点」を「都田村」として、三方原基線地に選び、明治16年(1883)7月~17年1月まで内務省地理局により、松林や荒れ地だったところに、延長約10km、幅10mの道路を造り測量が行われました。
つまり、神原町にある一等三角点は三方原基線南端点「神ケ谷」の座標となります。
なお、三方原基線北端点「都田村」の一等三角点座標は、2016(平成28年)3月支障撤去され、端点標石は発掘され国土地理院本院で保管されています。

 

 

地形図について

 

この辺りの基線測量後の地形図を見て気づくことがありませんか?
浜松基地が東西南北を基準に作られているのに対して、湖東町、西丘、高丘、葵西などの区画が完全に三方原基線平行、または直交していることがわかります。基地南側も、普通であれば同様に東西南北になるところですが、縦方向は北東方向の基線北端点「都田村」を向いての区画となっています。神原町の三角点から西山町に向かう直線道路(約1.7km)も、基線測量の遺構だと考えられますね。
 

 

一等三角点標石について

 

1910年(明治43)、陸地測量部によって基線の両端点には、花崗岩の18cm角、長さ80cm重量90kgに加工された一等三角点標石が設置されました。
三角点が設置された明治16年(1883)頃は、現在の航空自衛隊浜松基地の一部は神ケ谷村の一角でした。また、神久呂協働センターのある周辺は三方原台地続きの南端に当たり、小松が一面に広がる平坦地で「原山」と呼ばれていました。
現在の浜松基地がある場所を含めたこの膨大な一帯は、御料地(国有地)でしたが、大正時代(1912頃)から御料地の払い下げ、借用願等により開墾が始まりました。明治22(1889)年に神ケ谷、大久保、志都呂の村を合併してできた神久呂村は、昭和30年に浜松市に合併し、町名が神原町(神ケ谷の原山)となり60余年で現在のように整備され、住宅が多く建てられるようになりました。

 

神久呂の昔を探る会

 

【神久呂の昔を探る会について】
平成7年から6年間にわたり、浜松市内の石造物調査が行われました。
神久呂地区においても神社、寺院、路傍の石造物も博物館の学術専門家「学芸員」の手により調査がなされました。この機会の中で得られた知識、資料等により改めて地域の歴史を見つめ、地域の中で伝承されるものにしたいと考えて「神久呂の昔を探る会」を立ち上げました。

 

【主な活動について】
格式の高い賀久留神社関係を始め、現存する古い寺院、路傍の石または白河天皇にまつわる歴史や地区に伝わる民話等を紙芝居にまとめ、施設や小中学校へ慰問等行ってきました。20年以上に渡り10余冊、活動成果を手作りで冊子にまとめ発行してきました。現在は、「神久呂協働センターまつり」において年間活動の成果を展示発表しています。

 

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浜松市役所中央区西行政センター (地域振興担当)

〒431-0193 浜松市中央区雄踏一丁目31-1

電話番号:053-597-1112

ファクス番号:050-3385-8176

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