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更新日:2013年9月1日

その後、船長や船員たちはどうしたのか?

 その後の足取りはさらなる調査が必要

英国公使ハリー・パークスからの公文書(謝状)の中で「乗組之者陸路ヲ以横濱へ御遣シ相成候」とあり、船員と乗客は陸路で横浜まで帰ったことが分かっています。
馬車が浜松に登場するのは明治9年で、明治8年当時では徒歩か人力車が主な移動手段でした。明治7年(1874年)2月に州と州の間に架けられた「4つの木橋」と本流に架けられた「舟橋」からなる最初の天竜橋がかけられています。
船長らは「4つの木橋」を人力車で渡ったか、福島村から掛塚湊へ船で渡り、東海道へ入ったと思われます。
この橋以外、当時の東海道は江戸時代とほとんど変わっていませんでした。天竜川を渡った後、さらに東海道を進み、橋のかかっていない川は渡しを利用し、箱根などの難所では駕籠に乗ったと思われます。浜松から横浜までは旧東海道で約236km、60里でした。
明治8年(1875年)8月28日付「The Japan Gazette」の記事には、「航海士と船員9人は16日に出た。キャプテンと彼の妻は残った1人か2人の船員と共に先週の日曜日に出発し、セキネという名前の役人の案内で退屈な帰路ののち、昨日(新聞の日付からすると27日)、横浜に到着した」とあります。
また、「コッター船長と婦人がほとんど全ての個人資産を失くしたと語り、私たちは気の毒に思う。」との記者の感想がありますが、その後の足取りについては分かっていません。

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