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更新日:2013年9月1日

通訳の平野又十郎は英語が堪能だったのか?

 英語に精通した人物だった

平野又十郎は静岡県西遠地方の銀行組織を最初に作り、「静岡銀行」の基礎を作った人物として知られています。
嘉永6年(1853年)年12月27日、長上郡掛塚村(現磐田市掛塚)に廻船問屋、中宿川口屋の当主の二代目林文吉の八男として生まれました。幼名を八郎、後に幹造と改め、家督を相続して又十郎となりました。
慶応元年(1865年)敷知郡舞阪宿(現浜松市西区舞阪)の商人宿兼荷物問屋 堀江善吉方へ養子となりましたが、明治維新で社会が大きく変化したことから養家の仕事に不安を抱き、明治3年(1870年)東京へ出ます。当時の大蔵省監督権頭の岡村義昌の住み込み書生となります。間もなく岡村氏が兵庫県大参事に栄転したため随行し、岡村氏の紹介で小野組神戸支店に勤務しながら英語や洋式簿記を学びました。
仕事が終わった後、夜に英国人のもとで英語の研究をしていました。林幹造(又十郎)は英語に強い関心を持ち、外国人との交流があり、生の英語を聞き、かなりの勉強をしていたことが分かります。神戸で英語に親しんでいた林幹造(又十郎)は、それなりの働きをしたと思われます。古文書によると、福島村に滞在していた8月12日から8月16日の5日間、英国人の「頼み事」を聞き、戸長らに伝えていました。この頼み事は、食材から難破船への舟の用意、蝋燭や炭を難破船へ運ぶ、帆を張り点検し、畳んで、浜で乾かすなど単純ではありませんでした。
『家事用件録』の中の小伝に以下のような事が書かれています。
8月9日の大風雨で、英国帆船が福島村の浜辺に座礁し破損した。10日、母の希望で外国船を見に行く。すでに近隣の人々が集まり、道にあふれていた。先を争うように見てはあれこれと詮索しては噂をしていた。見ると全員が外国人だった。日本語が通じないので、官員や巡査が手振りでやっていたが、会話は困難に見えた。英語で話しかけてみると、両者の意味が通じたのでとても喜んでくれた。現地の官員が浜松県に書状を送り、すぐに臨時の通訳として雇われた。数日後、船員を横浜まで護送して、役目を終えた。

参考/引用
『平野又十郎 家事要件録』 平野静男/著 磐田市立図書館 磐田の著名人
http://lib.city.iwata.shizuoka.jp/(別ウィンドウが開きます)
筑後デジタルアーカイブ研究会 シニアネット久留米 大木町誌 第二章第五節近代
http://snkcda.cool.ne.jp/(別ウィンドウが開きます)

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