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更新日:2025年11月18日
灘とは昔から海・潮流の流れが速い所あるいは風浪が激しい所で航海が困難な海域を指しています。遠州灘では江戸時代から、海難事故が多くの船が難破、漂流していました。『新居町史』第一巻(通史編上)の海難事故一覧表には「享保3年(1718年)から慶応3年(1867年)まで百五十二年間の遠州灘新居関係の難破九十一件とあります。安政6年(1859年)、幕府が横浜・長崎・箱館の3港を開港し、自由貿易許可を布告したこの年に掛塚港沖合でアメリカ船が難破した事件もありました。この時、4名の命が失われ、そのニュースは当然、村にも届いていたとも思われます。
8月10日に戸長と長男が見回りをしています。これは村の田畑が水害の危険が及ばないかどうかだけでなく、海難事故の多い遠州灘で難破船や救助を求める者がいないかどうかを確認していたと思われます。あらかじめ、構えと心得をもっていた戸長は躊躇することなく、的確な判断を下し、村人を集め救出に当たることができ、全員を救うことができたのだと思われます。
古文書には酒や米は店に支払った記録はあるものの、肴代は店への支払いの記述がありません。これは村人が自分たちで獲ってきた魚を提供していたものと思われます。このことから、田畑の他に漁業も生業にする半農半漁の村で、海に詳しい気心の知れた若い漁師たちが救出にあたったことも、迅速な救出ができた要因だと思われます。
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