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更新日:2013年9月1日

難破から救出まで

ジェイムズ・ペイトン号は明治7年(1874年)2月14日に横浜へ到着して以降は、日本国内で就航していました。7月21日に大手の旅客汽船のため長崎から石炭を積んで横浜に入港。8月8日、横浜から出航、8月9日の深夜、遠州灘で勢力の強い台風により遭難、福島村の沖合に座礁しました。8月10日に船員・乗客が福島村の人々によって全員、救出されました。
難破から救出までの様子は1875年(明治8年)9月1日付けの英字新聞「The Japan Gazette」に掲載された英国公使法廷の記事に詳しく書かれています。また、救出時の日本側の資料として、『じぇいむずぺいとん号史実物語』があります。両者に細かい違いはありますが、村人たちが決死の救出をしたことは事実です。

コッター船長の証言(意訳)

1875年9月1日英国公使法廷より
8月8日、日曜日7時に横浜を出航、この時の風は穏やかだった。相模岬を午後3時に回った。その後、強い南西の風に変わった。夜中には大雨が降りだした。月曜日の午前4時には、暴風となり帆を巻上げて対応していた。急激に気圧が下がり、正午には雨雲が厚くたれこめ、雨も強くなった。その後、完全に暴風に巻き込まれ、さらに帆を巻上げ、風上に船が向いたままにするようにした。夜になると西北西にとても早く流され、夜の間中、激しい雨が降り、猛烈な台風に襲われた。

火曜日、午前4時に深海測鉛で水深を計るも、40ファゾム(約73.2m)でも海底に達しなかった。午前5時、1ファゾム(約1.8m)硬い海底を見つけたが、猛烈な風が吹いていたため、どうすることもできなかった。水深が15ファゾム(約27.5m)、風下側船首側に「たわら」(磐田の田原台地のことを指していると思われる)と呼んでいる陸地が2マイル(3.7km)先に見えた。岩礁に恐ろしく打ち砕ける波を想像した。ただちに停泊用の錨を投げ入れた。船はすでに左舷が開いていた。(船は右に傾いていた)南南西の風に船首が回転した。
南風に変わり、後に穏やかになった。いくつかの帆をあげ、体勢を立て直した時には、停泊用の錨の鎖はばらばらになっていた。午前9時か9時半頃、全員で朝食をとった。11時、南風のままだったが、強風にあおられ陸へと横滑りをはじめた。ただちに残りの帆をあげた。水深は5.5ファゾム(約10.0m)。陸地との距離は3.25マイル(約6km)。最後に水深を測った時は4.5ファゾム(約8.23m)だった。船は左舷の船首船底が激しくぶつかり、ただちに全乗組員を船尾に集めた。私は、船員たちにもしすばやく行動しなければ我々の命はないだろうと告げた。荒れ狂う波はデッキのあらゆるものを流し去っていた。

我々が深海測鉛の綱にくくりつけた空の樽が岸に打ち上げられた。村人がそれを掴んだ。それを使って5インチ(12.7cm)の太い綱を送り、すぐに杭で砂浜に打ちつけれた。太い綱をつたい乗客は上陸することができた。我々は、波の中を40か50ヤード(36.5mか45.7m)を越えていかなければならなかった。11人が上陸に成功した頃には暗くなっていた。二等航海士はずぶ濡れでひどく疲労しており、彼を救出することはしなかった。風は衰えていたため、一等航海士と1人の船員、コックが船に残ると申し出た。日本人の村で乾いた服と食物が提供された。

翌日、夜明け前に船に戻ると、一等航海士と船員が甲板にいるのを見つけた。船を調べると船倉5フィート(約1m52cm)まで浸水していた。舵は壊れ失われていた。日本人の助けを借りて全員を救出した。

『じぇいむずぺいとん号 史実物語』(要約)

村人の応援が来る頃、難破船と浜の間にブイが浮かんでいるのを見つける。
一団の若者、3人、4人、7人と若者が浜に駆けつけ、浜に揃う。
内山為五郎が綱を身体に巻きつけて、高波に向かって泳いでいく。
綱をブイに結び、難破船と浜がつながり、救出が順調に始まった。

ここでは樽をブイとしています。コッター船長の証言では「樽が岸に打ち上げられた」としていますが、高波に翻弄される船上から克明に流した樽を観察できたとは考えにくく、内山為五郎が樽を引き上げた瞬間を見たとする方が自然です。内山為五郎の勇敢な行動によって、救出できたと思われます。

何時に発見したのか

『じぇいむずぺいとん号 史実物語』では発見が午前3時、救出が夕方まで続いたと書かれています。しかし、9日の月は22時12分に沈んでおり、午前3時は月のない真っ暗な夜でした。

一方、古文書の「英国船諸入用費書上帳」によれば、「八月十日午後二時英国船難風高浪にて当浜表へ打ち寄せられ、乗組員人数残らず命を助け陸地へ引揚げ、それより戸長宅へ引き連れ着類残らず遣わし」とあり、午後2時と記録されています。

英国公使法廷のコッター船長の証言と古文書から、午後2時に発見、夕方まで救出活動が続いたと考えられます。

救出された日にち

英国公使法廷のコッター船長の証言では、10日の時点で疲れきっていた二等航海士のために一等航海士と1人の船員、コックは船に残り、翌日の朝に救出されたとあります。船長夫婦やその他の船員たちは10日に救出されています。

座礁の原因

当時、静岡での被害が9日に始まり、10日、11日に東京・横浜で被害が起きていることから、低気圧が西から東へ移動し、暴風雨をもたらしたと読みとれます。ジェームズ・ペイトン号は8日に横浜を出て、長崎に向かいます。つまり、自ら暴風雨へと向かったことになります。

雨が降り出したのは、8日の夜だったので、出航時点ではまだ雨は降っていなかったと思われます。船内から引き揚げた機器の中に晴雨計(気圧計)があることから、天候が悪化することは航海途中で判断できたと思われますが、急激な変化を予測することは難しかったと考えられます。

様々な情報を総合し、時系列で整理し推論すると以下のようになります。

8日 横浜を出航 やがて雨が降り出す。

9日 天候が急変し暴風雨に遭遇、竜洋海岸あたりで高波を受け、Y潮で東から西へ流される。

10日 深夜に遠州灘、福島海岸の浅瀬に乗り上げ、船体が傾き、舵も失い操舵できない状態になる。

帆船は荒天時、ライツー(※1)と呼ばれる操作をして、横波や横風を受けないようにする処置が取られます。ジェームズ・ペイトン号も同様の操作をしていたと思われますが、この時の水害の被害規模を考えると、かなりの強風と降雨だったと思われ、海流の変化、遠州灘の難所と悪条件が重なり、危険回避できない状況で座礁したものと思われます。

(※1)和英西仏語海洋総合辞典より ライツ-: lying to

  • (1)荒天にあって、風浪をしのぐために舵または海錨などよって、船首をできるだけ風上に向け、ほぼ停止している状態
  • (2)帆走中、風浪をしのぐために、帆を大幅に減じ、船首をできるだけ風上に向け、ほぼ停止している状態

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