ここから本文です。

更新日:2013年9月1日

村人のもてなし

福島村の人々は通訳の林幹造(のちの平野又十郎)の力を借りて、船員たちを現在の町村長にあたる戸長、副戸長、観音寺と浜に建てた小屋に分宿させ、食糧の手配やケガ人・病人の対応、荷物などの引き揚げ作業と管理もしました。船長は後に「船が福島村の海岸に難破したことに感謝する」と語り、福島村の人々のもてなしや配慮に対して心からの感謝を言葉を述べています。

滞在した場所

船員たちは戸長の斧次郎と副戸長の民家、観音寺、そして浜に建てられた小屋に分宿しました。

戸長斧次郎

戸長宅に滞在したのはウィリアム・コッター船長と婦人のヘンニー、トーマス・ブラウンとなっています。人数は3人。コッター船長は「妻と私とコックは横浜に帰った。」と証言しています。これらを総合すると、トーマス・ブラウンはコックはだったことになります。

副戸長

コッター船長の証言でも、副戸長宅に誰が滞在したのは書かれていません。しかし、帰路については以下のように証言しています。
「浜辺につくられた小屋に、9人の船員と一等航海士が5日間を過ごした後、陸路で横浜に送られた。私はその後、5日間、船の近くに残り、妻と私とコックは横浜に帰った。船を預かる二等航海士が残った。」航海士は3人だったので、残り航海士2人とボーイの3人だった可能性があります。

食事

古文書の「英国船勘定仕揚覚帳」に提供された食材が綴られています。

写真:古文書

酒、卵、卵、椎茸、うなぎ、鰹、鶏、あひる、西瓜、うり(きゅうり?)、油そして肴。肴は魚類のことだと思われます。特に酒と卵、肴が多く提供されています。米代が計上されていることから、米が主食だったことは確かだと思われます。ジェイムズ・ペイトン号は横浜からオーストラリアに米を運んでいます。また、当時の帆船の船員たちが航海中に米を食べていたことも分かっていることから少なくとも米食に抵抗感はなかったと思われます。また度々、酒を頼んでいます。

西瓜は好評だったようで、片付けのため難破した船内にも届けられています。油も頼まれていることから、焼く料理も多かったと想像されます。

酒や米は店に支払った記録はあるものの、肴代は店への支払いがありません。村人が自分たちで獲ってきた魚を提供していたものと思われます。このことから、福島町は田畑の他に漁業も生業にする半農半漁の村だったことが分かります。

ケガ人や病人の対応

古文書には、ケガ人や病人の対応についても書かれています。

8月12日 ケガ人の手当てのため医師と助手が来た。
8月16日 英国人病気になり浜松まで籠に乗せる。同日三人の英国人が引き取りのため浜松へ。

ちょっと補足

英語のできる医師がいた浜松県立病院

明治6年(1873年)3月、現在の紺屋町の一角に有志が資金を出しあって、会社病院ができました。その後、県に移管し、浜松県立病院が誕生しています。明治7年(1874年)4月現在の利町、五社神社の向かい側あたりに新築移転し、同時にこの県立病院に、浜松医学校が併設されました。
浜松県立病院の院長兼校長として招かれた太田用成は信州飯田の出身で、弘化元年(1822年)飯田藩士の館野四郎左衛門の三男として生まれ、藩医太田玄中の養子となっています。用成は若い頃、横浜で米国人ヘボンに医学と英語を学び、明治初年飯田に帰り、多くの子弟を教育しています。英語のできる医師がいる浜松県立病院を訪れたのは、ほぼ間違いないと思われます。

このページのよくある質問

よくある質問の一覧を見る

お問い合わせ

浜松市役所南区区振興課

〒430-0898 浜松市南区江之島町600-1

電話番号:053-425-1120

ファクス番号:053-425-1695

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページの情報は役に立ちましたか?

このページの情報は見つけやすかったですか?