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更新日:2013年9月1日

浜松市PRブック『HAMA流』第4号 追加情報

HAMA流
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 【混ぜる方程式1】 「浜松の銘茶“天竜茶”」×「神奈川の企業」=ボトル入り21,000円の超高級茶編

良いお茶を作るためには、まず畑づくり!

太田昌孝さんが、品評会のお茶として育てている茶の木は、「自然仕立て(ばら木)」。この「自然仕立て」とは、4月下旬に茶摘みを行った後、根株だけを残して刈り取ってしまい、1年かけて背丈ほどの大きさに育てるもの。毎年5月ぐらいから11月下旬ぐらいまでの暖かい時期は、茶の木が生長し続け、冬場の寒い時期になると茶の木の伸びが止まってしまう。その伸びが止まった時点で、茶葉の中でも、力があるものを残し、先端を一つひとつ刈り取ってしまう。残した力のある茶葉は、春に新芽が伸び、4月下旬から終わりにかけて、品評会へ出すお茶として摘み取りを行う。新茶の摘み取りは、約200人の方に手伝ってもらうため、人の手間はかかるし、作業の手間がかかる大仕事なのである。

 
記者のインタビューを受ける太田昌孝氏


自然仕立ての茶畑を見る太田昌孝氏

カネタ太田園の茶畑は、有機肥料で育てている。害虫とかが発生しないように、常に畑に行って目を光らせている必要がある。「良いお茶を作るためには、いくら仕上げがよくても、畑が良くなければ、良質のお茶はできません。」と語る太田さん。畑の土には、敷き草を多く被せ、その土は取らずに敷き草をどんどん増やしていくため、土がふわふわしたふとんのような感じになるという。このような有機肥料で育てた土の中はミミズやかぶと虫の幼虫等も増えるため、猪やその他野生動物がその土を食べに来るんだとか。要するに茶畑に動物の餌を撒いているのと一緒になるらしい。
太田さんは、「なんだかんだ言っても、やはり畑が大事だ。」という。「畑さえよければ、良いお茶はできる。畑があってのお茶で、畑が一番正直で、嘘をつかない。」と。太田さんは、長年の経験から、畑を大事にすればするほど、良いお茶ができると確信している。畑は、人間の子供のように、「あれが欲しい、これが欲しいとは言わない。だからこそ良いお茶を作るには、畑に良い肥料を与える必要がある。」と語る。太田さんは、なるべく畑に行って、顔色ならぬ、茶の色を見てやるという世話が大切だと言う。畑に何度も行って、手間をかければ、必ず良いお茶ができる。太田さんの言葉には説得力がある。


敷草がまるで毛布のような茶畑


青いネットは風よけ

お茶の成長には、ある程度寒暖の差が必要。そのため、元々昼夜の寒暖差がある山間部のお茶というのは、平地よりも良いお茶ができる環境だと言える。茶畑には、防霜ファンといわれる霜よけ用の扇風機を付けている所が多いが、太田さんの考えは違う。「個人的に言うと、あれは必要ないと思う。人間だって同じじゃないですか。寒い時に、扇風機を回したりしないでしょ。寒い時は、毛布をかけてやる。当たり前のことだと思います。」そのため、太田さんの茶畑には、扇風機はつけていない。「扇風機をかけて、自分は寝ていたって良いお茶はできません。だから、我が子を育てるようにすれば良いお茶ができます。」「人間は手をかけ過ぎてはいけないけれど、茶畑はいくら手をかけても、かけ過ぎということはないと思います。」太田さんは、お茶への想いを熱く語った。
茶畑に下草を敷く事は、根元を温めるということだから、自然に育つ木々にとっては大事なことだという。草を敷いておけば根が死なないし、冷えた時に立ち氷がはるということもない。「足元が寒いと人間だって風邪をひく。お茶だって同じだよ。」と太田さんは、笑顔を見せた。

ワインやビールでなく、お茶で乾杯ができれば・・・

ボトル入り高級茶は、日本で食事をする時に、「ワインやビールで乾杯だけでは、おかしいじゃないか。酒を飲まない人がワイングラスで楽しく飲めるものが必要だ。」「日本茶で始まって、日本茶で終わるというのも良いじゃないか。」とロイヤルブルーティーの吉本社長と太田さんの意見が合って商品化されたもの。太田さんは、「お茶づくりだってワインづくりのように手間がかかっている。」「このような新しい形で、天竜茶の良さを全国にPRできれば・・・。」と語っている。
お茶は、熱いお湯で入れると、やはり渋味が強くなってしまう。金色透明が昔ながらのお茶の色。深蒸しの緑のお茶の方が見た目は良く、一般的にも飲まれているが、山間地で育てられた天竜茶は、昔ながらのお茶で、かすかな渋味と香りの高いのが特徴である。
昔、天竜地区には、力のある問屋さんがいなくて、「天竜茶」の幟り旗が全くなかったという。太田さんの父親は、「天竜、森、川根は、静岡県でも美味しいお茶の三本指に入る。」とよく言っていたらしい。だから、「天竜茶の幟りを一本でも多く揚げたいという想いが強く、その一心で頑張ってきた。その気持ちは今でも変わりません。」と。
そのためにも、品評会に積極的にお茶を出して、世間に美味しいお茶である事を認めてもらうことの必要性を語る太田氏。「品評会で認めてもらえれば、張り合い、やる気がでますし、目標ができますね。私のいきがいです。」と熱い胸の内を語った。


「この味は本当にびっくり!」と感嘆する記者


金色透明の煎茶

 【混ぜる方程式2】
「浜松餃子」×「オートバイ造りの技術」=国内シェアNo.1の餃子製造機メーカー編

自動車部品製造から餃子自動製造に転身したその訳は?

(株)東亜工業の工場は、昔は現在の三方原町ではなく小豆餅にあり、そこで自動車、オートバイの部品関係の金型を造っていた。特に、オートバイのマフラー、ミッション、ギアボックスの金型が中心で、三方原町に移ってからも金型やベアリング等も造っていたが、昭和51年から餃子自動製造機を造り始めるようになった。当時は、やはり自動車部品の下請けの仕事が多く、何か自社独自のものを造りだせないだろうかと常に考えていたという。そういった状況で、「何ができるんだろう。」「何ができたらいいのだろうか。」と考えた時に、まずは足元の浜松地域を今一度見直してみようと先代の請井由夫社長は考えた。

  
自動餃子製造機が誕生した
秘話を語る請井正社長

  
記者からインタビューを受ける
請井正社長

たまたま、先代が浜松のある飲食店に入った時に、その店で餃子を作っていた。その当時から浜松はよく餃子が食べられており、先代も良く食べていたそうだ。その店の女性従業員の方が、長時間手で餃子を一所懸命作っているのを見て、「餃子って、手で作るしか術がないだろうか。」「餃子を作る機械というものが世の中に無いのだろうか。」と先代は考えた。その後、いろいろと調査した結果、当時はどこでも手作りが当り前の時代で、やはり餃子の自動製造機はどこにも存在しなかった。そこで、餃子の自動製造機を造ったらどうなるだろう、どれだけの潜在的な需要があるのだろうかと考えた後、潜在需要があることを感じ取った先代が自動餃子製造機の製造を始めたのである。

餃子づくりは意外と繊細なもの!

元々オートバイ部品の金型を造っていた会社だったため、エンジン、ギアボックス、マフラー等の開発から携わっており、プレスの技術は既に持っていた。金型には雄と雌があり、そこにステンレスの板を通し、プレスしてマフラー等を造るという技術。餃子の機械も同じ原理で、ステンレスの板が餃子の皮であり、その餃子の皮に餡を載せてプレスするということは、案外特別なものではなかったのである。ステンレスと餃子の皮は、材質は違っても製造する工程は一緒。根本となる技術は、マフラーを造るのも餃子を作るのも一緒だということだ。「発想を転換して今まで私達が培った技術を餃子作りに活用しただけです。」と請井社長は語った。
先代の「遠州人らしさ」「ものづくり」の発想が、ステンレスから餃子という物に転用され、先代のちょっとした気付きが自動餃子製造機を造るきっかけとなったのである。しかし、完成するまでには大変な試行錯誤を重ねたという。プレスの技術を応用すること自体は、比較的早く辿りついたのだが、一番苦労したのは、自動車の部品のように数値に置き換えられない部分が食品には数多くあるということ。例えば、ステンレスは、設計の段階で厚みが何ミリとか、数値上に出てきて、それに対して必要な型を造り、必要なトルクで圧力をかければ出来あがる。しかし、餃子の場合、その皮の厚さというものは、注文するお客さんによっても違うし、中に入れる具そのものも全く違う。お客さん全ての要求に応えるのは、至難の業だった。「全てに万能な機械を造ることは、今でも難しい。」と語る請井社長。最初の頃は、ノウハウがなかったため、ある程度スタンダードの機械を確立させ、「お客様の方で合わせたものにしてください。」という感じだった。そのうち、年々差別化というものが出てきた。A社とB社があって、全く同じものだと競争の原理は働かない。そのため、他店と違うものを作って、差別化をして欲しいという要望がだんだんと増えてくるようになった。
「店によって一軒一軒、求めているものが違うし、餃子の形だったり、硬さ、柔らかさ、具の多い少ない、粘っこさとかさらさら感とか、一つひとつ違うんですよ。それらをカスタマイズしているうちに、餃子自動製造機を造り始めて、10年ぐらい経ってからだと思いますが、一軒一軒の要求に応えることができるようになったんです。」と請井社長は試行錯誤を繰り返した日々を振り返った。

餃子を通して、浜松が、そして全国が盛り上がれば

請井社長は、浜松餃子がB級グルメの代表として有名になったことを大変嬉しく思っている。「浜松の餃子を盛り上げたいというのはもちろんありますが、自分自身、全国の“餃子の応援団”的な部分があります。」「浜松が盛り上がることで、今度は宇都宮市もがんばろうと、相互に盛り上がってくれることを願っています。」とあくまでも浜松だけが盛り上がればいいとは思っていない。
宇都宮市の駅前に行けば、(株)東亜工業で製造した自動餃子製造機が置かれている店が3軒ぐらいあるという。
「全国的にも、世界的にも餃子の消費量が増えて、餃子を取り巻く産業がさらに盛り上がってくれればいいですね。」と請井社長はその想いを語った。

餃子が世界中で食べられる、もっとポピュラーなものになって欲しい!

請井社長の夢は、米国のヤンキーススタジアムで、ビールと紙コップに入った揚げ餃子が買えるようになり、揚げ餃子を食べながらビールを飲んで野球観戦できるようになることだと言う。また、「餃子は、日本の食文化の中でスタンダードなものになった。これからは海外、世界中でもっとポピュラーなものになって欲しい。」と願っている。「そのためのお手伝いを我々がしていきたい。」と。請井社長は、元々、大学を卒業して和食店で働いていた。いつか自分の店を持ちたいということで、その店で修行をはじめたが、都合で26歳の時に今の会社へ入ったのである。「入社した当時は、会社が一番活気づいていたような気がします。市場のキャパもありましたし、これからという感じでした。」と入社当時を振り返る請井社長。自分自身は、営業で全国を飛び回り、自分ほど餃子を食べたという人間はいないじゃないかと思うぐらい餃子を食べたという。
請井社長は、今のように浜松餃子が盛り上がってきたのは、必然的な事だと思っている。
「私は、これはなるべくしてなったと思っています。それは、30年以上前から浜松では餃子の消費が多かったですし、浜松という場所そのものが営業しやすい場所でした。」地元のメーカー、地元のお客さんにも機械を使用してもらって、お互いにタイムリーなキャッチボールができ、市場も活性化したと語る請井社長。
浜松は昔からホンダ、ヤマハ、スズキなどの自動車産業やオートバイ産業が栄え、元々ものづくりが発展する土壌があった。必要とされる会社、模範となる会社が揃っていることは、部品や加工品等がすぐに手に入ると同時に、必要な情報が集めやすいということ。「物も情報も入手しやすい土地であるため、浜松がものづくりの街として発展してきた。」「浜松は、ものづくりに必要ないろんな情報が入り、模範となる企業がいっぱいある集積地だと思います。」と請井社長は“ものづくりの街・浜松”の良さを語った。

浜名湖の弁天島の景色は素晴らしい!

請井社長は生まれも育ちも浜松市。お気に入りの場所は、「浜名湖の弁天島」だとか。「浜名湖の弁天島の景色は素晴らしいと思います。また、今切から見る遠州灘の広々とした景色は最高です。本当に良い場所だと思います。」と。また、「浜松は、食べ物も、うなぎ、みかん、お茶など美味しいものがいっぱいある。」しかし、やはり請井社長は、「もっと浜松発の餃子の魅力を伝えていきたい。」と語っている。将来的には、自分自身の餃子のお店も出すことができたらとも考えており、「餃子の美味しい店を集めた集積地などを作って、皆と一緒になって、“まちおこし”が出来たらとも思っています。」と餃子による“まちおこし”の夢を語った。

 

 【混ぜる方程式3】
「和紙」×「漁網を織る技」=肌想いのお風呂タオル編

浜名湖タオルができあがる“きっかけ”は?

(有)静岡濾布で現在代表取締役を務めている松下満彦氏の祖父である松下与作氏が、1921年「静岡一つ捩(もじ)り織り」を開発し、「松下漁網工場」を創業。この漁網は、遠州灘のしらすや駿河湾の桜えびを捕る網として使用されていた。戦後になって、この工場で作る漁網は、餅米をふかす時に蒸篭(せいろう)に敷く「ふかし布」として活用され、全国の家庭に広く普及することとなった。昭和40年代に入ったある時、地元の婦人会の方が台所の引き出しの奥に使用されずにしまっておいた「ふかし布」で体を洗ったらどうなるのかと、試しに体を洗ってみた。その結果「洗い心地が良い。」ことと、大きさも65cm四方あるから「タオルにちょうど良い。タオルにしたら売れるんじゃないか。」と考え、65cm四方のふかし布を90cm×45cmの大きさにして浴用タオルとして作った。


記者にインタビューを受ける松下満彦氏

これがきっかけとなり、その後、もっと軽量でボリュームのあるタオルを作りたいと、工夫と研究を重ねた結果、「からみふっくら織り」を発案し、平成9年には、「遠州からみ縮れ織り」で特許を取得した。また同年に「和紙」をタオルに織り込むことに成功したのである。和紙は、一般の方には水に溶けてしまうという先入観があり、「浴用タオルに和紙を使うなんて、馬鹿げている。非常識だ。」と批判を受け、最初は変人扱いもされたという。それでも、東京・大阪・神戸などで開催された地場産品フェアに参加し、1枚1枚を来場者に丁寧に説明し、手渡しで販売を続けていた。その後、フジテレビの「とくダネ」という番組の中で、市販されている1千種類の浴用タオルの中から6種類を選び出し、品質・耐久性・泡立ち・汚れ落とし・肌触り等のテストが実施された。そのテストの結果、(有)静岡濾布で製造した「和紙タオル」が総合得点で2位となり、「麻のからみふっくらタオル」が3位に、「絹のからみふっくらタオル」が5位となって、遠州からみ織り(漁網)の浴用タオルが3種類も入賞し、上位を独占する結果となった。松下氏は、その評価によって、遠州からみ織りの技法が軽量でボリュームのある新しい浴用タオルの分野を開発したと確信を持ったという。

製品を通じた産業観光、「街おこし」が一番大事

松下さんは、村櫛町で生まれ、この土地で育ったため、浜名湖の穏やかな風景が好きだという。中でも水郷の風景がお気に入り。「風光明媚な浜名湖にはたくさんの水郷があって、きれいな水郷を見ると心が和みますよ。」と語る松下さん。
松下さんは、「ものを作って、製品を売るということは、もちろん大事だけれども、もっと大事なのは、地域の事を知ってもらって、多くの人に訪れてもらう産業観光が重要だ。」と言う。実際に浜名湖へ来てもらって、和紙タオルのしゃぶしゃぶ体験をしてもらい、「浜松のことを知ってもらうことが一番」だと考えている。全国の各地域でタオルを売るのは、生活していく上で必要な事だが、その製品を売るという行為を浜松地域の活性化にどう繋げていくか?松下さんは、この事を一番に考えているのである。


浜名湖の風景


水郷の風景

さらに松下さんは次のように語っている。
「タオルがただ売れれば良いということでやれば、タオルをたくさん作って誰かに販売してもらえばいいが、時代は変わったと思う。タオルを売ることが、この地域の活性化のために何か役に立てられないだろうかという想いが強いんです。」また、「産業観光といっても、今までのように浜松の旅館やホテルはいいですよ、温泉がいいですよ、この場所はいいですよとPRしたって限界はある。単体で勝負できる時代ではないと思う。」と。
産業観光の振興を図るには、地域の良いものを組み合わせて、パックで考えていく必要がある。そのためには松下さんは、「和紙タオルしゃぶしゃぶ体験」を通して、浜松の地域、浜松の魅力を情報発信していくことが重要だと考えている。
うなぎパイとエアパークをセットにして観光を売り出したら、年間2万人だった観光客が、今では年間50万人と倍に増えているという。これらも、産業と観光をうまく組み合わせた地域の良い例だと。タオルしゃぶしゃぶの体験コーナーは、以前は工場の軒下でやっていたが、2008年10月に新しい施設が作られた。体験コーナーは、3年前は、年間2,500人程、去年が5,000人ぐらい、今年が10,000人ぐらいと年々体験に来る人が増えてきているという。
「こうした地域の活性化を図るための活動が注目を浴びて、浜松に訪れてくれる人が増える事を大変嬉しく思っている。」と松下さんは笑顔を見せた。


土鍋にタオルのしゃぶしゃぶが描かれた看板


記者もタオルのしゃぶしゃぶを体験 

 【混ぜる方程式4】
「うなぎ」×「梅干し」=禁断のひつまぶし編

実は「うなぎ」と「梅干し」の愛称は抜群!?

浜名湖かんざんじ温泉の「志ぶき」を経営する山崎暁史(やまざきあきふみ)氏は、二代目店主。舘山寺温泉には丸くて小さな赤い橋「しぶき橋」があり、波しぶきのように、店にお客さんがたくさん押し寄せてきて欲しいという想いから、初代店主が「志ぶき」と命名したという。
創業以来守り続けている伝統の技と味が自慢であり、鰻の主産地である地元浜名湖産を中心に、選び抜いた国産の鰻を使用し、焼きたての風味をお客様に届けている。遠方からのお客さんも多く、特に中京圏からのお客さんも多いという。
志ぶきで出されている「おひつまぶし」は、一杯目は、お櫃から茶碗に取り、うな重風にそのままで味わい、2杯目では、なんと!梅・ごま・青じそ・あさつき等の薬味をお好みで茶碗にのせ、うなぎ茶漬けとして食べるのが特徴。
「うなぎと梅干」というと昔から、「食べ合わせが悪い。」と言われている。この食べ合わせが悪いとされている2つの食材をあえて合体して、メニューにしたのはそれなりの意味がある。店の従業員の賄い料理として出したうなぎと梅干と合わせた茶漬けがまた美味で、これを店のメニューとして取り入れたのである。ご主人いわく、「紀州の梅のような甘い梅干しは駄目。かといって酸っぱ過ぎる梅干しも駄目。ほど良い塩加減の梅干しが、うなぎとの相性が最高。」とのこと。家庭でもできるため、一度試してみてはいかがでしょうか。


二代目店主 山崎暁史氏


舘山寺温泉にある「志ぶき橋」


取材記者もうなぎと梅干しの組み合せに納得の様子!


梅・ごま・青じその入ったうなぎ茶漬け

生まれも育ちも舘山寺町の店主が語る「浜松、浜名湖の魅力」

店主の山崎暁史さんに、浜松の良さについて訪ねてみた。
「生まれた時からずーっとこの舘山寺町に住んでいるので、町の良さはよくわかっているつもりですが、浜松は本当に良い場所がたくさんあると常々思っています。」「浜名湖の風景は四季折々で綺麗だし、山もあり、川もあり、気候は年中温暖で、本当に自然環境に恵まれた最高の場所です。」と浜松の良さを語る山崎さん。
山崎さんが特に気に入っているのは、浜松市動物園から舘山寺温泉へ向う途中の浜名湖の右側に大草山が見え、浜名湖頭上にロープウェイが通る景色。浜名湖もその周辺の山々も綺麗で、“心が癒される最高の景色”だと。浜名湖は魚介類が豊富で、新鮮な食材がいっぱいある素晴らしい湖。「浜名湖の魚を食べると他の所の物は食べられない。」という方もいて、バラエティーに富んだ浜名湖の魚介類の味は最高。また奥浜名湖や天竜区は、山の幸も豊富で季節ごとの旬な食材がいっぱい。こんな浜松が大好きだと言う山崎さんがあらためて語ってくれた。「浜松は、まだまだ私自身知らない部分がたくさんある地域。海の物も山の物も豊富で本当にいい所だなぁーと感じています。」


浜松市動物園から舘山寺温泉を臨む


大草山から見た舘山寺温泉

店主が語る「うなぎ」の良さは・・・

お店に来るお客さんは、中京圏を中心に約7割の方が県外の方だとか。「是非、ひつまぶしを作って欲しい。」というお客様からのリクエストもあって、10年ぐらい前から「おひつまぶし」をメニューに取り入れた。店で扱っている鰻は、ほとんどが養殖ものだと言うが、「うなぎは蒲焼にすると柔らかく食べやすく、しかも栄養満点な食材だと思います。」と語る山崎さん。また、うなぎは夏場と冬場で、身の固さがまったく違い、夏場の方がやはり身が柔らかく、脂ものっているとのこと。年間を通じて食べることができる食材であることもうなぎの魅力の一つだとか。

お店とうなぎを守るマスコット「うなぎ地蔵」

「志ぶき」には、店の駐車場の奥にかわいらしい顔をした「うなぎ地蔵」が置かれている。ご主人が言うには、このうなぎ地蔵も2代目で、お客様の中にはお賽銭を置いていく人もいるとか。駐車場でにこやかな顔でお客様を迎え、心を癒してくれるまさにお店のマスコットキャラクターなのである。

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