緊急情報
ここから本文です。
更新日:2024年3月25日
浜松市の市街地部にあり、市の玄関口である浜松駅から北西に約1.5kmに位置します。バス交通や徒歩によるアクセス利便がよく、主要道路が東西南北に通っているため、浜松城公園近くの駐車場まで、車でアクセスすることもできます。
元亀元年(1570)、徳川家康が前身である引馬城を拡張して築きました。堀尾吉晴の城主時代に石垣や天守閣が築かれたとされ、歴代城主によって改変が繰り返されています。
現在は、野面積の石垣が残され、歴史を今に伝えています。
浜松城公園は、市制40周年記念事業として昭和25年に開催された浜松子供博覧会を契機に開設されました。当時は、競泳用プール、動物園等が設置されており、その後昭和33年に浜松城天守閣が復興され、翌年に当時の野面積の石垣が残る天守曲輪、本丸周辺一帯が市文化財(史跡)に指定されました。その後は、浜松市のセントラルパークとして、時代にあったかたちで施設の統廃合、整備を行い現在に至ります。
浜松城公園は、三方原台地東南縁部の斜面を生かした公園として、整備が進められてきました。そのため、植生は人工的な植生がほとんどです。本丸に植えられたソメイヨシノや西端城曲輪に植えられたシダレザクラは市民の憩いの場、また桜の名所にもなっています。しかし、樹根による石垣への直接的な悪影響や、樹木の繁茂による景観阻害などの問題も生じています。
天守門跡の野面積の石垣は、古城の雰囲気を感じ取ることができ、良好な歴史的景観となっています。
計画地から見る周辺の景観としては、史跡指定された石垣からの眺望は特に優れており、市街地への景観を一望することができます。起伏に富んだ地形のため、天守曲輪や天守閣からは市街地のみならず、はるかかなたの山並みまで眺望することができます。
周辺からの計画地の景観よしては、天守閣がランドマーク性を有しているにも関わらず、周辺のビルや公共施設、繁茂する樹木により、十分な眺望を確保できていません。また、特に石垣を望む景観が全く確保されていない状況です。
二回にわたる発掘調査によって、天守門は壮大な櫓門であることが確認できました。
1階にあたる門の部分については、平成21年の調査で礎石4箇所、礎石抜取穴2箇所を検出しました。礎石は石垣と同様の珪岩の自然石を用い、大きさは長軸1mを越える巨大なものでした。東西の礎石の中心距離は2.25~2.4mであり、7尺5寸~8尺程度を基準にしているとみられます。一方、南北の中央礎石の中心距離は4.4~4.6mであり、15尺程度を基準にしていると考えられます。
天守門の2階にあたる櫓部分は平成22年の調査で確認されました。櫓の南北幅(桁行)は、約12mであることが判明しています。櫓の東西幅(梁間)は不明確ですが、1階部分の東西幅よりも大きいことは確実です。
また、石垣上の土塀にかかわる直接的な遺構は確認できませんでしたが、櫓の南北両脇からは塀瓦が数多く出土したことから、瓦葺きの土塀があったことがうかがえます。
富士見櫓跡からは北辺に礎石が3石確認できました。礎石間の距離は約2mであり、京間を用いた建築物であったことが判明しました。しかし、建物が南側にどの程度あったかは、発掘調査からは判明しませんでした。
富士見櫓の北側は厚い土壁を持っておらず、御殿風の構造であったと推定できます。建物に京間を用いていること、櫓の北側の空間に玉砂利を敷いていたことなどは、富士見櫓が御殿風の構造を持ち備えていたことを示す根拠といえます。
また、礎石検出と並行して、北側の埋没した石垣を確認しました。調査の結果、北側の石垣は直線的な平面形でなく、鍵の手に折れ曲がる形状であることが判明しました。これは、検出した建物の礎石列と不整合であり、石垣構築時と、富士見櫓の構築時期が異なる可能性が出てきました。また、北側の石垣上面の列からは塀瓦が集中的に出土し、富士見櫓より後の時期に、北側石垣に沿って土塀がめぐっていた可能性があることが判明しました。。
富士見櫓の建築時期や規模については不確定要素があり、現時点で旧態を想定することは難しい状況です。