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更新日:2018年11月8日
田畑政治(たばた まさじ)
1898年(明治31年)~1984年(昭和59年)
今の浜松市中央区成子町に生まれる。
浜松中学(現 浜松北高)から旧制一校を経て東京帝大(現 東京大学)に進み、朝日新聞社に入社。
浜名湾游泳協会と日本水泳連盟の設立にかかわる。
ロサンゼルスオリンピック水泳総監督、日本水泳連盟会長、メルボルンオリンピックおよびヘルシンキオリンピック日本選手団団長、日本オリンピック委員会会長などを歴任。
2019年大河ドラマ「いだてん」の主人公の一人。
田畑政治は1898年(明治31年)12月1日、浜松町成子(今の浜松市中央区成子町)で誕生した。体が丈夫とはいえなかったため、夏季には浜名湖の弁天島にあった別荘で、海水浴や水泳に親しむようになった。浜松中学に入学後、弁天島で開かれた水泳部の訓練に参加、一年生から遠泳(村櫛から気賀まで)を泳ぎ切るまでに成長した。しかし、四年生で慢性胃腸炎を患い、医師から競泳の選手はあきらめるように言われ、断腸の思いで指導者に転身する。そして、浜名湾游泳協会の設立から全国大会の開催、さらに昭和7年のロサンゼルス五輪では水泳の総監督としてアメリカに圧勝して水泳ニッポンの名を世界にとどろかせるまでになった。
田畑の功績もあり、昭和11年に東京五輪の招致が決まったが、戦火の拡大によって、開催権を返上せざるを得なくなり、戦争末期にはスポーツどころではなくなった。しかし、戦後間もない昭和20年10月には日本水泳連盟の理事長に、23年1月には会長に就任した。22年1月にはオリンピック準備委員会を結成するが、23年のロンドン五輪への参加は叶わなかった。24年6月、国際水泳連盟への復帰を果たし、全米水泳選手権に古橋廣之進などの選手を派遣。古橋は驚異的な世界新記録で優勝し、日本人の地位向上に貢献する。
1958年(昭和33年)以降、田畑は東京オリンピック招致に向けた準備委員会を牽引し、悲願の招致に成功した。開催決定後はオリンピック東京大会組織委員会事務総長として開催に向けて手腕を発揮した。その功績は高く評価され、勲二等瑞宝章やIOC功労賞を受賞するなど日本スポーツ界の発展に尽力した。
(水泳ニッポンの父 田畑政治展~2019年大河ドラマ「いだてん」主人公の一人~より ※敬称略)
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