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更新日:2023年12月1日

浜松の歴史

工業の成長とともに発展し人口増加から浜松市誕生。

浜松が市制を施行したのは1911年(明治44年)7月1日。市の発足にともない、市長(事務取扱)にはそれまで町長だった鶴見信平が就任。当日は利町の五社公園で祝賀式が行われました。当時の戸数は6940戸、人口3万6782人。静岡市に次ぐ県下2番目の市となりました。
9月5日には第一回浜松市会議員選挙が行われ、定員30名で新しく市会がスタート、12月には小西四郎が第二代市長に就任しました。

市制施行1年目の浜松市役所。市役所は町役場時代の建物(現・中央区紺屋町)を使用した。
市制施行1年目の浜松市役所。市役所は町役場時代の建物(現・中央区紺屋町)を使用した。

産業都市浜松のはじまり地域を結ぶ、鉄道の普及。

1910年(明治43年)、政府の軽便鉄道法施行を受け、浜松でも2つの私設軽便鉄道会社が創立されました。1912年(大正元年)に設立されたのが、浜松鉄道株式会社(当初は浜松軽便鉄道株式会社)。初めは元城~金指間の16キロが開通し、その後元城駅~板屋町駅までの路線も開通。さらに金指から気賀へ延長し、1923年(大正12年)には終点の奥山まで開通しました。三方原や引佐郡の特産物の輸送、奥山半僧坊への参拝客の輸送などをおもな目的としていました。

煙突の形がラッキョウに似ていたため「ラッキョウ軽便」と呼ばれ、市民に親しまれていた。
煙突の形がラッキョウに似ていたため「ラッキョウ軽便」と呼ばれ、市民に親しまれていた。

産業の振興を目的にした市主催の全国産業博覧会

市制20周年祝賀の意を込めて、浜松市を会場に開催された全国産業博覧会。1931年(昭和6年)3月15日から5月8日までの55日間にわたり開催され、入場者は68万人に上りました。(当時の浜松市の人口はおよそ11万人)
日本各地の物産を日本のほぼ中心にあたる浜松に集め、さらに機械や発明品の展示で観覧者を集め、浜松をより高度な産業都市へ飛躍させようという狙いがありました。これを機に商工都市・浜松の名は全国に知られるようになります。

博覧会の案内パンフレットに掲載された博覧会および浜松市を中心とする名所鳥瞰図。鳥瞰図絵師 吉田初三郎の作品。
博覧会の案内パンフレットに掲載された博覧会および浜松市を中心とする名所鳥瞰図。鳥瞰図絵師 吉田初三郎の作品。

規模が大きく、東会場と西会場の2カ所に分けて開かれた。写真は東会場の正門。
規模が大きく、東会場と西会場の2カ所に分けて開かれた。写真は東会場の正門。

軍需工場をもつ都市として空襲を受け、市の大半が焼失

1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦にともない、市内の多くの企業は軍需物資の生産を開始。このため浜松は地方都市の中でも数多く空襲される都市となりました。
1944年(昭和19年)12月13日の空襲から始まり、1945年(昭和20年)6月18日の浜松大空襲など、合計27回にもおよぶアメリカ軍の空襲や艦砲射撃により、旧市街地の大部分が焼き尽くされました。死者はおよそ3000人、重軽傷者はおよそ1700人、被災人口は当時の人口の64%にあたる12万人、被災戸数は88%にあたる3万1000戸に上りました。

焼け野原となった市の中心部。現在の板屋町、広小路を西へ入った浜松郵便局の北側あたり。
焼け野原となった市の中心部。現在の板屋町、広小路を西へ入った浜松郵便局の北側あたり。

やらまいか精神で復興へ〜世界から注目を集めたトピックス〜

太平洋戦争終結の翌年、1946年(昭和21年)には本田宗一郎が本田技術研究所を設立。無線用発電機の小型エンジンを改良し、自転車に取り付けたポンポン(小型オートバイ)第一号が誕生したのをきっかけに、40社ものオー
トバイメーカーが競い合うほどの一大産業を作り上げるまでになります。
スポーツ界では1947年(昭和22年)に、古橋廣之進(現・中央区雄踏町出身)が400メートル自由形で世界新記録を樹立(未公認)。「フジヤマのトビウオ」として世界中に名を知られることになり、応援する多くの国民に勇気と希望を与えました。
また日本の土木史における「金字塔」と称えられた佐久間ダムが完成したのが1956年(昭和31年)。工事着工からわずか3年4カ月という短期間で完成しました。

佐久間ダムの建設は、アメリカの大型土木機械を使って工事を行うという、当時としては画期的な試みだった。
佐久間ダムの建設は、アメリカの大型土木機械を使って工事を行うという、当時としては画期的な試みだった。

恵まれた交通網によりさらなる産業の発展へ

高度経済成長を象徴する大事業の一つ、東海道新幹線が1964年(昭和39年)に開通。「夢の超特急」の愛称で呼ばれた東海道新幹線の浜松駅が開業したのは、東京オリンピックの開幕を10日後に控えた10月1日のことでした。
1969年(昭和44年)には東京と名古屋を結ぶ本格的なハイウェイ東名高速道路も開通し、浜松インター(現・中央区流通元町)が設置されます。交通網の発達は、産業の街・浜松に大きな経済効果をもたらしました。

新幹線・浜松駅の落成式は営業開始前日に行われ、大いに祝賀ムードに包まれた。
新幹線・浜松駅の落成式は営業開始前日に行われ、大いに祝賀ムードに包まれた。

楽器と音楽の街・浜松の名を世界に向けて発信

浜松市は1988年(昭和63年)、国際的な会議や見本市、さまざまなイベントを活発に開催できる都市として、国際コンベンションシティに指定されるなど、産業と文化の調和ある豊かな人間都市の実現を目指しました。1991年(平
成3年)には市制80周年を記念して、第1回浜松国際ピアノコンクールを開催。第2回からは1994年(平成6年)に完成したアクトシティを会場に3年ごとに開催され、世界で活躍する優秀な若手ピアニストを多く輩出しています。

浜松国際ピアノコンクールは、今では世界有数のピアノコンクールとして、世界から高い評価を得ている。
浜松国際ピアノコンクールは、今では世界有数のピアノコンクールとして、世界から高い評価を得ている。

新・浜松市の誕生と浜松の未来づくり

2005年(平成17年)7月1日、天竜川・浜名湖地域の12市町村が合併し、人口80万人を超える県下最大規模の都市、新「浜松市」が誕生。2007年(平成19年)には政令指定都市へと移行します。
明治から始まった浜松市制は2011年(平成23年)に100周年を迎え、1年を通して記念イベントが行われました。現在、新たな産業、新たな文化など、新しい価値が生まれ育つ創造都市・浜松を目指して、新たな歩みを進めて
います。

平成23年7月1日に行った、浜松市制100周年記念式典
平成23年7月1日に行った、浜松市制100周年記念式典

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浜松市役所企画調整部広聴広報課

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電話番号:053-457-2021

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