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更新日:2023年11月15日

二俣城跡及び鳥羽山城跡

 二俣城跡及び鳥羽山城跡 ふたまたじょうあとおよびとばやまじょうあと (天竜区二俣町)
 平成30年2月13日 国指定史跡

概要

 二俣城跡及び鳥羽山城跡は、浜松市天竜区二俣町二俣に所在する戦国時代の山城です。両城とも、周囲を天竜川に面した天然の要害に築かれており、今川氏、徳川氏、武田氏、豊臣氏といった名だたる有力大名がその領有にかかわりました。両城の正確な築城時期は明らかではありませんが、二俣城については桶狭間の戦い(1560年)以降に本格的な造営が始まったとみられます。1572年~1575年には、二俣城をめぐり徳川氏と武田氏の攻防戦が繰り広げられ、その際、鳥羽山城には徳川方の本陣が置かれました。1579年には徳川家康の嫡子、松平信康が二俣城で自刃する事件も起こっています。1590年、徳川家康が関東に移封されると、豊臣家重臣の堀尾吉晴が両城を領有し、二つの城の主要部分に石垣が構築されました。この頃、二俣城には天守も築かれた可能性が高いとみられます。1600年、堀尾氏が転封すると間もなくして、二俣城と鳥羽山城はその役目を終えました。

 両城にみられる顕著な特徴は、中世的な土づくりの山城に、近世的な石垣が導入された初期の姿が良好に保存されていることといえます。二俣城には、深い堀や天守が備えられるなど要塞化が進められたことに対して、鳥羽山城には開放的な大手道や庭園が構築されるなど迎賓館的な性格が強められています。両城は、機能の違いが顕在化した「別城一郭」といわれる戦国時代の城郭の姿を具体的に伝えるものとして、高い価値が認められました。

二俣城跡

 元亀3年(1572)から天正3年(1575)の間、徳川家康と武田信玄・勝頼親子との攻防戦が繰り広げられた城として著名です。天守台や石垣は、天正18年(1590)から慶長5年(1600)の間に城主であった堀尾氏によって築かれたものと推定されています。二俣城の主要な遺構は南北300m、東西250mの範囲にあり、堀で区画された施設の要所には石垣がみられます。2009年から2015年に実施した丘陵全体にわたる測量調査と発掘調査によって、二俣城の構造が明確になりました。

二俣城跡

鳥羽山城跡

鳥羽山城跡は、二俣城の南に広がる東西1000m、南北350mほどの独立丘陵上に立地します。二俣城跡とは南北500mほどの至近距離にあります。二俣城をめぐる徳川氏と武田氏との攻防戦の際に、徳川方の本陣が築かれました。天正18年(1590)から慶長5年(1600)の間、二俣の地を領有した堀尾氏によって石垣を備えた城郭に改修されました。枯山水庭園や破格の大きさの大手道など迎賓館的な性格が強いことが特徴です。

鳥羽山城

二俣城跡及び鳥羽山城跡の概要(PDF:226KB)

アクセス

二俣城跡・鳥羽山城跡案内図

二俣城跡へのアクセス

鳥羽山城跡(鳥羽山公園)へのアクセス

 

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ファクス番号:050-3730-1391

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