緊急情報
ここから本文です。
更新日:2023年3月24日
浜松市文化財情報/Vol.65
Vol.65 平成25年6月15日
下野(しもつけ)や神の鎮めし二荒山(ふたらやま)
二度(ふたたび)とだに御世(みよ)は動かじ
(真淵47歳、享保3年(1743)
“二荒山”は日光山のことで、神君家康公を祭る日光東照宮があり、真淵の“敬幕”の心が詠まれています。
“国学”とは、掲載歌の如く、江戸中期の安定した時代を背景に、漢学に対して興った新しい学問であり、我が国の古典を研究し、そこに日本人本来の生き方の拠り所を求めようとした学問です。今回、国学を樹立した賀茂真淵の輝かしい業績を、古典研究の面からスポットをあて、真淵の高弟本居宣長をはじめその門流が、どのように継承発展させていったかを、掛軸や写本・版本で紹介しています。真淵の最大の学問的業績『万葉考』、宣長の古事記の注釈書『古事記伝』等々真淵記念館ならではの古典研究の名著約40点が勢揃いした展示を是非ご覧ください。
本年は“「松坂の一夜」250年”、ここに焦点をあて、展示の一端を紹介いたします。
展示室中央で注目を集める「松坂の一夜」の絵画(本居宣長ノ宮所蔵)。
宣長が手にしているのは真淵著『冠辞考』、「真淵先生に会いたい!」と宣長に熱望させるもとになった本なのです。
『古事記』が読めなくて困っていた宣長に光明を与えた『冠辞考』ですが、『冠辞考』とは『万葉集』や『古事記』などの枕詞を五十音順に並べ解釈を付した枕詞辞典。江戸での初版は宝暦7年(1757)6月、伊勢松坂で宣長が『冠辞考』を手にしたのは同年10月!300冊はなかったと推察される初版本が松坂で宣長の目に触れたのは奇跡に近い!!一期一会の「松坂の一夜」を契機に師弟となり、書簡による真淵の指導を受け35年の努力により大叙述『古事記伝』を完成させたのです。
「松坂の一夜」
『冠辞考』
正面ケースを飾るのは、栗田土満の長歌“本居大人の古事記伝を寿てよめる”の掛軸。
土満は真淵及び宣長の門人であり『古事記伝』の版下を書きましたからその完成はどんなに喜ばしかったことでしょう。その横には真淵の「富士の嶺を観て記せる詞」の掛軸。田安宗武の命を受け、万葉の故里大和へ旅行した折、富士の麗姿に我が国柄の美しさを象徴的にとらえた天朗帖の古雅な筆跡による雅文は“富士山を世界文化遺産へ”の動きにふさわしいものです。この「大和旅行」で真淵は宣長と会うのです。
この他にも、日本サッカー協会のシンボルマークにつながる真淵の『八咫烏考』、島崎藤村の『夜明け前』に登場する“勤王の母松尾多勢子”等々、学術的価値も高く話題性のある名品満載の展示です。
「富士の嶺を…」
「『万葉集』や『古事記』には、日本人が忘れてはならないものがある。」と学問に情熱を傾けた真淵とその門人たちの研究は、古典の魅力を今に伝え、言葉のもつ力を教えています。
―「松坂の一夜」250年特別講演会―
“「松坂の一夜」250年~師弟の心・学びの心~”
日時 7月5日(金曜日) 午後1時30分~3時30分
場所 賀茂真淵記念館 講座室
講師 本居宣長記念館 館長 吉田悦之 氏
定員 50人(応募多数の場合抽選)
受講料 400円
申込 往復はがきに住所・氏名・電話番号を書いて、賀茂真淵記念館へ【6月23日(日曜日)消印有効】
賀茂真淵記念館 浜松市中区東伊場一丁目22番2号
埋蔵文化財調査事務所は平成5年に西区神原町に開所以来、約20年にわたり浜松市内の遺跡の発掘調査を実施し、記録類や出土品の整理、保管を行うなど市内遺跡の保護・活用の拠点となってきました。この埋蔵文化財調査事務所が6月3日(月曜日)、北区引佐町引佐健康文化センター1階に移転しました。
埋蔵文化財調査事務所では大きく分けて3つの主な仕事を行っています。
この20年間でおよそ80件の発掘調査を行い、発掘調査報告書を刊行してきました。また講座や現地説明会、体験学習等に数多くの方にご参加いただきました。
今後もこれまでと同様に市内に多数存在する遺跡の保護と活用に向けて職員一丸となって、新たな気持ちで業務に取り組んで参ります。
西区の皆様、永い間ありがとうございました。北区の皆様、これから末永く宜しくお願いいたします。
〒431-2295 浜松市北区引佐町井伊谷616-5
引佐健康文化センター1階 浜松市埋蔵文化財調査事務所
TEL 053-542-3660 / FAX 053-542-3326
5月には、こんな調査活動などを行いました。
1日 |
(水曜日) |
北区都田町 |
郷ヶ平古墳群工事立会[~30日] |
---|---|---|---|
5日 |
(日曜日) |
天竜区春野町 |
犬居つなん曳伝承状況現地調査 |
8日 |
(水曜日) |
浜北区~北区 |
絶滅危惧種調査 |
9日 |
(木曜日) |
中区松城町 |
浜松城跡工事立会[~17日、23日] |
10日 |
(金曜日) |
西区埋蔵文化財調査事務所 |
神久呂小学校6年生施設見学 |
12日 |
(日曜日) |
西区坪井町 |
ウェルカメクリーン作戦 |
17日 |
(金曜日) |
天竜区水窪町 |
中央構造線調査 |
19日 |
(日曜日) |
北区引佐町 |
横尾歌舞伎後継者育成事業現地調査 |
20日 |
(月曜日) |
天竜区春野町 |
瑞雲院山門保存修理委員会 |
21日 |
(火曜日) |
北区都田町 |
郷ヶ平古墳群予備調査[~27日] |
24日 |
(金曜日) |
南区東若林町 |
村裏遺跡予備調査 |
25日 |
(土曜日) |
中区春日町 |
古民家活用事業調査 |
27日 |
(月曜日) |
東区市野町 |
別所東遺跡工事立会 |
平成25年6月15日(土曜日)~6月30日(日曜日) |
「郷ヶ平6号墳」 |
---|---|
平成25年7月12日(金曜日)~9月1日(日曜日) |
県指定史跡「二本ヶ谷積石塚群」ほか |
平成25年7月15日(月曜日) |
市指定無形民俗文化財「遠州大念仏」 |
(この記事は、浜松市メールマガジンとリンクしています)
私たちの暮らす静岡県西部は、かつて遠江(とおとうみ)」と呼ばれました。今でもこれを略した「遠州」という地名が普通に使われています。ところで、現在の滋賀県はかつて「近江(おうみ)」と呼ばれていました。どちらも奈良時代からつづく伝統の地名です。両者は、もとは「遠淡海(とほつあはうみ)」と「近淡海(ちかつあはうみ)」という対(つい)の地名で、古代の都人から見た浜名湖と琵琶湖の景観に共通性をたとえた命名です。都から近い淡水の湖・琵琶湖を「近江」、琵琶湖に似た景観に見えた浜名湖を「遠江」と略称するようになったのです。
遠い湖ならどこでもよかったわけではなく、琵琶湖と浜名湖は、国境(現在の県境)の山地を西に背負い、湖の南を街道(東海道)が通過するなど共通性があります。湖から南に流れ出す川があって、川にかけた街道の橋は、それぞれ「瀬田の唐橋(からはし)」と「浜名の橋」と呼ばれる、世に知られた名所でした。琵琶湖とその周辺の自然景観のみならず、人工の景観も含めて、浜名湖周辺と相似すると見立てていたわけです。いずれの湖も、西から街道を歩いて旅すれば、国境の峠を越えて初めて眼下に広がる眺望がとてもよく似ています。
ここで気になるのは「淡海」という表現です。実際に、古代の浜名湖は浜名川で遠州灘に通じ、潮の満ち干きの影響はあったものの淡水に近い湖として認識されていました。今から500年ほど前に起こった大災害(2年前の東北大震災に似た規模だったかもしれません)で、南端の砂洲が水没して「今切(いまぎれ)」を生じ、汽水湖に変わりました。室町時代に、まさに“今”切れたという大災害の記録が、地名として引き継がれているのです。浜名湖畔では、以後もたびたび津波などの大きな災害を受け、その被害や教訓を記した絵図や古文書が残されています。
栩木家文書「浜名橋之図但シ今切」部分
(永正八年(1511)浜名湖今切の図)
あじさいの花がしっとりと咲き始めた頃、ちょっぴり早まったかと思われる梅雨入り宣言と共に、埋蔵文化財調査事務所は引佐健康文化センター1階に引っ越して参りました。
慌しい日々が続きましたが、山積みのダンボール箱もほぼ片付いたところです。豊かな自然に囲まれた引佐町から、今後も最新の調査成果をお届けします!
お問い合わせ
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください