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更新日:2023年3月24日
浜松市文化財情報/Vol.60
Vol.60 平成25年1月15日
本年度、西区舞阪町では、舞阪町天白遺跡と浜田遺跡の 2箇所の本発掘調査を行いました。最新の調査成果をお伝えします。
調査地 西区舞阪町舞阪108(舞阪小学校敷地内)
期間 平成24年8月3日(金曜日)~8月21日(火曜日)
調査面積 237平方メートル
調査区全体(北西より)
舞阪町天白遺跡での調査は、2007年に続いて、2回目の調査となります。前回の調査では、同じ舞阪小学校敷地内を発掘調査し、古代の竪穴式住居跡27軒分や掘立柱建物跡2軒分が確認されました。また、弥生時代中期~中世にかけての複合遺跡であることも判明しています。
今回の調査では、前回の調査区の約100m東の放課後児童会の建設予定地を発掘調査しました。前回と同様に弥生時代中期~近世の遺物・遺構が多数発見されました。中でも、特筆すべきは、弥生時代中期の壺が発見されたことです。壷の一部が意図的に壊されていることに加え、上半部と下半部が重なって出土した状況をふまえると、死者に供えられた土器の可能性が高いと思われます。したがって、今回の調査区が、当時は墓域であったことが推測されます。
弥生時代の壷
調査地 西区舞阪町舞阪5464
期間 平成24年10月17日(水曜日)~10月30日(月曜日)
調査面積 200平方メートル
調査区全体(北より)
浜田遺跡は、JR舞阪駅の南西、東海道の松並木が現存している北側にあります。調査では、多くの小溝群を見しました。小溝群は、幅約60cm、深さ約20cm で、それぞれ約40cmの間隔で並んでいました。小溝群から出土した遺物は、飛鳥時代の須恵器・土師器、鎌倉時代の山茶碗、近世~近代の磁器、陶器等が出土しています。発見された小溝群は、出土遺物と形状から、近代の畑の耕作痕の可能性が高いと考えられます。
小溝群の下からは、古代の溝も発見されました。調査区の近辺に古代の遺構が広がっている可能性が考えられます。調査区外まで範囲が及んでいるため、全長は不明です。この溝からは、飛鳥時代の須恵器・土師器・土錘が出土しました。
主な出土遺物
去る1月14日(月・祝)、天竜区春野町堀之内の秋葉山瑞雲院で市指定有形文化財「瑞雲院山門」保存修理工事現地説明会が行われました。瑞雲院は、犬居城主天野氏を開基とし中興開山しました。天正4年(1576)徳川家康の犬居攻めの兵火の後、慶長年間に家康によって現在地に移転復興されました。その後、歴代住職によって諸堂の整備が行われ、現在の伽藍を構成しています。明治以降、島田市川根町家山の三光寺、天竜区水窪町の善住寺とともに、北遠曹洞三ヶ寺の一つに数えられる名刹です。
山門は楼門形式で、現存する棟札によれば寛延3年(1750)11月に建立され、現在の森町地域に住む大工が多く関わったことが分かっています。その後、天保12年(1841)8月と安政6年(1859)8月に屋根の修理が行われ、現在に至っています。(平成2年1月24日指定。)
当日は爆弾低気圧の影響で激しい風雨の一日でしたが、設計監理者や施工者による説明を聞きながら、解体途中の山門の様子を間近に見ることができました。檀家の皆さまや地域の皆さまなど参加された皆さまは、文化財的に貴重な知見を得ることが出来る絶好の機会を堪能されるとともに、文化財保存修理の考え方や方法についての理解を深めていただけたのではないかと思います。
素屋根がかかる瑞雲院山門
説明会のようす
12月には、こんな調査活動などを行いました。
5日 |
(水曜日) |
南区若林町 |
井村遺跡予備調査 |
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7日 |
(金曜日) |
西区舞阪町 |
舞阪町天白遺跡工事立会 |
西区入野町 |
浜地遺跡工事立会 |
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10日 |
(月曜日) |
西区舞阪町 |
舞阪町天白遺跡工事立会 |
天竜区水窪町 |
草木開けずの壷の調査 |
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11日 |
(水曜日) |
静岡市葵区 |
歴史的建造物の保全活用協議会出席 |
12日 |
(水曜日) |
浜北区 |
浜名・北浜・北浜東部地区分布調査 |
13日 |
(木曜日) |
南区若林町 |
村裏遺跡予備調査 |
17日 |
(月曜日) |
天竜区水窪町 |
西浦の田楽衣装 |
18日 |
(火曜日) |
西区西伊場町 |
三永遺跡予備調査 |
中区和合町 |
権現谷遺跡予備調査 |
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21日 |
(金曜日) |
北区三ケ日町 |
馬場遺跡工事立会 |
平成25年1月27日(日曜日) |
重要無形民俗文化財「遠江のひよんどりとおくない」 |
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平成25年2月3日(日曜日) |
県指定無形民俗文化財「横尾歌舞伎」 |
平成25年2月23日(土曜日) |
市指定無形民俗文化財「遠州代念仏」 |
■講座
[第1回講座]平成25年2月9日(土曜日)午後1時30分~3時/庄内公民館(西区庄内町) |
考古学から探る宿蘆寺大澤家墓所 |
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[第1回]平成25年2月3日(日曜日)午後1時30分~3時30分/博物館 |
文化財ボランティア養成講座 |
(この記事は、浜松市メールマガジンとリンクしています)
井伊氏は、平安時代の寛弘7(1010)年出生した共保(ともやす)を初代とし、幕末の大老井伊直弼(なおすけ)を輩出した一族です。井伊氏祖共保には、正月元旦、渭伊八幡宮の御手洗の井戸から生まれたとの伝説が残されています。共保は後に、現在の北区引佐町井伊谷に居を構え、井をかたどる「井桁」と井戸の傍らにあった「橘」を家紋としたと伝えられています。鎌倉時代の井伊氏は鎌倉幕府に仕える遠江の御家人として勢力を拡張し、その後の南北朝時代には宗良親王を迎え、南朝方に与し三岳城や井伊谷城などを拠点に足利軍と戦いました。室町時代は遠江の有力な国人領主として室町幕府のもと働いていましたが、戦国動乱期には謀殺、討死が相次ぐなど過酷な運命に翻弄され存亡の瀬戸際に立たされたこともありました。このようななか徳川家康に仕えた井伊直政(なおまさ)が井伊家を再興しました。徳川四天王の一人として、井伊の赤備といわれた徳川軍最強の部隊を率い、関ヶ原の戦い後はその行賞により近江佐和山18万石を与えられ彦根藩の礎を築きました。一般的に井伊氏といえば、江戸時代の譜代筆頭として徳川幕府を支えた彦根の大名というイメージで、特に、鎖国政策を転換し日本を開国した幕末の大老井伊直弼が有名です。しかし、その井伊氏の出身地が奥浜名湖の地井伊谷であることは、意外に知られていません。「井伊谷+彦根=井伊氏千年の歴史」の長さと深さは、大河ドラマをも凌ぐ壮大なスケールで展開されてきた一大歴史絵巻「井の国千年物語」にほかなりません。
市指定史跡「伝井伊共保出生井」
2013年が幕開けしました。昨年は松東遺跡出土の銅鐸が話題をさらいましたが、今年も新たな発見を期待したいところです。1月には、東区中郡町の旧鈴木家屋敷、2月には北区三ヶ日町の西山古墳の発掘調査が予定されています。寒風吹く中ですが、心は熱く発掘調査に臨みたいと思います!本年も浜松市の文化財関連事業をよろしくお願いいたします。
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