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更新日:2014年2月4日
浜松市文化財情報/Vol.59
Vol.59 平成24年12月15日
宿蘆寺大澤家墓所[しゅくろじおおさわけぼしょ](浜松市西区庄内町)は、江戸時代に遠江国堀江(浜松市西区)周辺を領した旗本《註1》、大澤家が営んだ墓地です。
平成24年11月30日、この墓所が浜松市の史跡に指定されました。
大澤家は3,550石を領し、歴代当主は江戸幕府の高家《註2》の役職をつとめました。
その墓所は菩提寺の宿蘆寺(曹洞宗)に造営されており、大澤家の当主とその嫡子にかかわる石塔11基が営まれています。
高家旗本の墓所にふさわしい風格と、江戸時代の墓域をそのままに伝えることが高く評価されました。
宝篋印塔
墓所には長軸11m、短軸8.5mほどの区画がみられ、その中に宝篋印塔[ほうきょういんとう]《註3》3基、五輪塔8基の合計11基の石塔と関連石塔部材が確認できます。
各石塔は、歴代(旗本初代~10代)の大澤家当主と若くして亡くなった8代当主の嫡子のものであり、当主らの戒名と没年が刻まれています。
このうち、最も古い年号は、初代基宿[もといえ]塔にみられる寛永17 年(1640)であり、10代基暢[もとのぶ]塔にみられる文久2年(1862)に至るまで、江戸時代を通じて墓地の造営が続けられたことが分かります。
墓所中の石塔では、2代の基重[もとしげ]から4代の基恒[もとつね]の3基の石塔が注目できます。
これらの石塔は、宝篋印塔とよばれる形式に属し、石塔に刻まれた細かな模様が江戸で流行した特徴と共通する貴重な事例です。
また、初代基宿の石塔は、五輪塔とよばれる形式で、高さ3mを超える巨大なものです。
この石塔は、刻まれた模様や石材の特徴から、19世紀頃になって新たに造営されたものとみられます。
五輪塔
刻まれた模様
石塔は、区画を囲むように三方向に並んでいます。
このうち、正面の石塔は互いに近接しており、一部は基礎の石材を共有していることから、離れた所から集められたものとみられます。
こうした墓所改修の時期は、石塔石材の変遷等から初代基宿の石塔が再構築された19世紀以降のことと推定できます。
明治時代以降、墓地の造営が続かなかったことから、墓所中には江戸時代の石塔しかみられません。
江戸時代の様子を良好に残している点も、この墓所の大きな特徴です。
平成22年度から平成23年度までの文化財調査を通じて、宿蘆寺大澤家墓所は高禄の旗本階層が領地に営んだ墓所の具体像を伝える貴重な事例であることが明確になり、学術的価値が高く評価されました。
宿蘆寺大澤家墓所の指定により、浜松市内の指定史跡は78件(国指定2件、県指定10件、市指定66件)になりました。
浜松市が所有する「佐久間の林業と山村生活の用具」220種1,105点が、平成24年11月30日、静岡県指定有形民俗文化財に指定されました。
佐久間の林業にかかわる山樵用具や材木の運搬用具など機械化以前の多様な諸用具、山村の生活を支えた焼畑に関係する農具、狩猟用具、衣食及び信仰にかかわる諸用具など、内容は多岐に渡ります。
静岡県内には、このようなかつての山村生活を伝える多様な諸用具を一括して保存している例は他になく、その重要性が評価されました。
写真1:トウグワ
天竜区佐久間町は、その90%が山地で占められ、天竜川の本流と支流が谷を深く刻んでいます。
先祖代々佐久間の人々は、山と川をよりどころとして生活を営んできました。
田んぼを作ることができる平地が少ない山間地では、「ヤマツクリ」と言って焼畑が盛んに行なわれていました。
急傾斜の畑を耕す時は、土が下に流れてしまわない様に谷に向って「トウグワ」(写真1)をつかいます。
腰を曲げた重労働でした。
写真2:キンマ
写真3:ガンリキ
写真2は、伐採した木材を運び出すための「キンマ」というそりです。
直径30cmくらいの丸太30本ほどを積み、重さ1tにもなるキンマを一人で曵いて下ろす作業は、常に転倒の危険と隣り合わせの作業でした。
山から下ろした木材は、筏に組んで天竜川を流します。
冬、丸太の表面が凍る時期、筏師は「ガンリキ」(写真3)をはいて天竜川の急流を下りまし
た。
地元の皆様の手で集められ、さくま郷土遺産保存館に展示されてきたこれらの用具は、平成9年、佐久間町(合併後は浜松市)の指定文化財として保存されてきました。
「佐久間の林業と山村生活の用具」を管理する浜松市博物館は、これからも貴重な民俗文化財として保存と活用を図って参ります。
11月には、こんな調査活動などを行いました。
1日 |
(木曜日) |
天竜区役所 |
浜松戦国山城まつり実行委員会(第2回) |
---|---|---|---|
5日 |
(月曜日) |
中区元城町 |
浜松城跡工事立会(~16日) |
6日 |
(月曜日) |
埋文査事務所 |
与進中学校職場体験(3名) |
7日 |
(火曜日) |
天竜区二俣城跡 |
与進中学校職場体験(3名) |
9日 |
(金曜日) |
東区恒武町 |
笠井遺跡工事立会 |
10日 |
(土曜日) |
天竜区佐久間町 |
今田花の舞伝承状況現地調査 |
11日 |
(日曜日) |
天竜区二俣町 |
浜松戦国山城まつり(発掘調査説明会・ウォークラリーほか/1,180名) |
13日 |
(火曜日) |
天竜区二俣町 |
二俣城跡天竜観光ボランティア見学 |
19日 |
(月曜日) |
天竜区春野町 |
瑞雲院山門保存修理委員会 |
20日 |
(火曜日) |
中区住吉 |
住吉B古墳群予備調査 |
21日 |
(水曜日) |
東区天竜川町 |
松東遺跡天竜川町自治会見学 |
27日 |
(火曜日) |
南区東若林町 |
村東遺跡予備調査 |
29日 |
(木曜日) |
北区引佐町金指 |
本屋敷遺跡予備調査 |
無形民俗文化財
滝沢のおくない
寺野のひよんどり
懐山のおくない
川名のひよんどり
1月14日(月曜日)
市指定有形文化財「瑞雲院山門」
瑞雲院山門保存修理工事現場公開
文化財ボランティア養成講座
文化財講座「宿蘆寺大澤家墓所をさぐる」
(この記事は、浜松市メールマガジンとリンクしています )
大澤氏は、江戸時代に現西区舘山寺町の堀江陣屋を拠点として庄内半島を治めた石高3,550石の旗本でした。
大澤氏は、藤原北家(持明院家)の流れをくむ家柄で、貞治年間(13世紀)に藤原基秀が遠江に下向し堀江城に居城したことに始まります。
基秀の子基久の時に、前領の丹波国大澤にちなんで大澤の姓を名乗ることになりました。
大澤氏が堀江に居城した13~14世紀、庄内半島には有力武将として佐田城主の堀江氏、有力土豪の村櫛氏が活躍していましたが、領分関係や勢力範囲についてははっきり分かっていません。
大永2年(1522)佐田城は足利氏に攻略され、堀江氏は滅亡します。
堀江氏の領分を引き継いだ大澤氏は、浜名湖沿岸の多くの地域を支配し、湖上交通を掌握することになりました。
大澤氏は堀江城主として斯波氏、後に今川氏に従っていましたが基胤の時、家康の説得に応じ徳川軍に従うことになりました。
基胤は各地に転戦し、長子基宿とともに功を立て、江戸幕府創立後の慶長14年(1609)には、基宿は従四位下近衛権少将に、次いで権中将に叙せられ、高家に列せられることになりました。
舘山寺町の堀江には城跡があり、庄内町の宿蘆寺には歴代の旗本領主の墓所があります。戦国時代には湖上の覇者として、江戸時代には高家旗本として活躍した大澤氏を偲んでみてはいかがでしょうか。
堀江城
いよいよ今年も残りわずか。2012年浜松市文化財課三大ニュースの発表です!
・・・(ドラムロール)・・・
みなさまの三大ニュースは何でしたか?
急に冷え込みが激しくなりましたが、お風邪など召されぬよう、よい年をお迎えください。
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