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更新日:2023年3月24日
浜松市文化財情報/Vol.56
Vol.58 平成24年11月15日
浜松市文化財課では、浜松戦国山城まつりにあわせ、二俣城跡(天竜区二俣町二俣)の発掘調査を実施しました。
二俣城跡の発掘調査は2009年から開始しており、2012年の調査は4度目の調査にあたります。
今回の発掘調査箇所
今回の発掘調査は、本丸天守台、本丸土塁、二の丸南側堀切の3箇所を調査対象にしています。
天守台の発掘調査では、埋もれていた基底部分を確認しました。
現状で露出している部分より下に1~2段程度の石組みがあることが判明しています。
天守台西面
本丸土塁の調査では、外側に石垣が巡っていることが判明しました。
状態がよい部分では、高さ約2m分の石垣が確認できました。
現在、石垣の多くは崩れていますが、かつては土塁外側全体が高い石垣で覆われていたと推定できます。
本丸土塁
二の丸南側堀切の調査では、現在の地表面から約1.6mの深さで底面を確認しました。
二の丸南側堀切は幅11m、深さ4mほどの大きさとみられ、城内の堀の中では最も大きく、高い防御機能が期待されたものといえます。
また、堀底面の形状は平坦で、堀底を通路として利用していたと捉えられます。
2010年の調査で堀の中から出土した土器が、文禄年間(1592 ~ 1596 年)頃のものと判明しており、二俣城がこの頃に改修されたことが裏付けられました。
堀切
これらの調査結果から、旧来の土作りの城を改修し、石垣や深い堀を備えた最新式の城の姿に作り直されている様子が明確になりました。
堀の中からは、徳川家康が関東に移封された後の土器が出土しており、この大規模な改修は徳川氏の後に、西遠江を領有した堀尾吉晴(豊臣秀吉の重臣)の弟、宗光(二俣城主)によって行われたことが明確になりました。
二俣城における軍事機能が充実するのは、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いの後のこととみられます。
永禄11 年(1568)、今川氏の滅亡により二俣城は徳川家康が領有するようになりましたが、元亀3年(1572)、武田信玄による遠江侵攻によって攻略されます。
その後、天正3年(1575)まで徳川氏と武田氏は二俣城をめぐり激しい攻防戦を展開しています。
天正18年(1590)、家康の関東移封に伴って、堀尾吉晴(豊臣秀吉の重臣、浜松城主)の弟、堀尾宗光が二俣城に配属されます。
堀尾氏の時代になると、二俣城の主要部には石垣が巡らされ天守が建てられたとみられます。
現在みられる二俣城の姿は、この堀尾氏による大改修を受けた後のものと捉えられます。関ヶ原の戦いの後に堀尾氏が移封されてからは、二俣城は使用されなくなりました。
11月10日(土曜日)、11日(日曜日)の二日間、天竜区二俣町で「浜松戦国山城まつり」を開催しました。
10日は浜松市天竜壬生ホールにおいて、基調講演・基調報告・シンポジウムが行われ、主に学術面から二俣城・鳥羽山城の魅力が語られました。
中でも、CG映像を交えた二俣城の最新調査報告では、会場から一斉にフラッシュがたかれたり、また、時折「どよめき」が起こるなど、およそ300人の来場者が訪れた会場は熱気に包まれました。
パネルディスカッション
11日は、まず、二俣城では、甲冑を身に着けた武者(出演者)による徳川軍と武田軍の攻防を再現した「軍議シミュレーション」と、それに引き続き発掘調査の現地説明会を実施しました。
親子連れや女性のグループをはじめ、熱心な歴史・城郭ファンのみなさんが多数来城(来場)され、発掘を担当した文化財課職員の説明に熱心に耳を傾けていました。
二俣城発掘調査説明会
また、「ヤマタケの蔵」ほか二俣のまち各所では、秘密のキーワード(知りたいですか?)を探していく「二俣戦国ミステリーウォーク」(スタンプラリー)や「甲冑試着体験」、武将隊のみなさんとの「なりきり撮影会」が実施されました。
また、サイドイベントとして「天竜二俣の文化歴史写真展・物産展」も開催され、二俣城と同様、親子連れやカップルなど多くの方に来場していただき、にぎわいました。
あいにく昼からは冷たい雨が降ってきてしまいましたが、二俣のまちに「武将」や「忍者(案内人)」が出没し、「ほら貝」が響き渡る異空間的な雰囲気に包まれた楽しい一日でした。
ヤマタケの蔵
(公式ツイッターはまだ続きます…!)
10月には、こんな調査活動などを行いました。
1日 |
(月曜日) |
中区 |
浜松城9次発掘調査開始(~12月下旬) |
---|---|---|---|
2日 |
(火曜日) |
北区細江町 |
近代和風建築現地調査 |
9日 |
(火曜日) |
東区市野町 |
市野遺跡工事立会 |
12日 |
(金曜日) |
中区・本庁 |
姫街道の松並木保存管理庁内連絡会議(第2回) |
13日 |
(土曜日) |
東京都豊島区 |
「民俗芸能inとしま」寺野のひよんどり出演 |
15日 |
(月曜日) |
東区大島町 |
上大瀬遺跡工事立会 |
16日 |
(火曜日) |
浜北区宮口 |
梔池遺跡予備調査 |
17日 |
(水曜日) |
中区 |
浜松城天守門起工式 |
18日 |
(木曜日) |
埋文事務所 |
曳馬中学校職場体験(5名)[~19日] |
19日 |
(金曜日) |
北区引佐町 |
鈴木家住宅茅葺屋根損耗状況調査 |
20日 |
(土曜日) |
北区細江町 |
文化財を守るシンポジウム |
22日 |
(月曜日) |
北区細江町 |
近代和風建築現地調査 |
23日 |
(火曜日) |
東京都千代田区 |
第8回やらまいか交流会参加 |
24日 |
(水曜日) |
浜北区新原 |
東原遺跡予備調査 |
27日 |
(土曜日) |
北区引佐町 |
横尾歌舞伎ふじのくに子ども芸術大学講座 |
29日 |
(月曜日) |
天竜区佐久間町 |
今田花の舞保存会との意見交換 |
31日 |
(水曜日) |
天竜区二俣町 |
二俣城跡発掘調査開始 |
(この記事は、浜松市メールマガジンとリンクしています )
北遠地域(現在の天竜区一帯)には、かつて山香荘という大きな荘園が置かれていました。
室町時代から戦国時代にかけて、この山香荘で勢力を拡大し、国人領主として一帯を支配したのが天野氏と奥山氏です。
天野氏は伊豆を本貫とし、源頼朝のもとで活躍した天野遠景を祖とする一族です。
鎌倉時代に山香荘の地頭となった天野氏は、その後、本拠を山香荘南域の犬居に移し、勢力を拡大していきます。
一方、奥山氏は山香荘北域の奥山郷(佐久間町、水窪町)を本拠とし、信濃や奥三河との国境までを支配していました。
犬居城模型
両氏とも戦国時代には今川氏に服属しましたが、桶狭間合戦後に今川氏が衰退すると、徳川氏に服属し、さらに武田氏と徳川氏の争いが激化すると武田氏に服属するなど、生き残りをかけた様々な動きをします。
天野氏は犬居城を居城とし、周辺に篠ケ嶺城や樽山城、勝坂城等の支城を配して防御を固めますが、信玄没後には徳川家康の攻撃を受けました。
一度は徳川軍を撃退するなど奮戦しますが、遂に天正3年に犬居城は落城し、天野氏は武田氏を頼って甲斐へ落ち延びていきました。
一方、高根城(久頭郷城)を居城とする奥山氏も徳川氏と武田氏の間で一族が分裂し、武田氏滅亡後に歴史から消えていきました。
こうした動きは、歴史に翻弄された国人領主の姿を今に伝えていますが、一方で徳川家康を一度は撃退した天野氏の奮戦も記憶に残ります。
合戦の様子は、大久保彦左衛門が著した『三河物語』に活写されています。
『三河物語』や宮城谷昌光さんの小説『新三河物語』を手に北遠の城や合戦場を巡り、当時に想いを馳せてはいかがでしょうか。
この号が出る頃には二俣城跡の発掘調査は終わっていますが、調査に際して城内の草刈りをしたおかげで、天守台をはじめとした石垣の様子や、堀切・曲輪の形が見学しやすくなっています。
また、本丸土塁上のモミジも色づき、とても良い雰囲気になっています。
11日の現地説明会に行けなかった方も、今が見頃の二俣城跡を訪れてみてはいかがでしょう?
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