緊急情報
ここから本文です。
更新日:2023年3月24日
浜松市文化財情報/Vol.52
Vol.52 平成24年5月15日
平成22年から23年に、浜松市で行われた埋蔵文化財の調査についてご紹介します。
梶子遺跡は、伊場遺跡群を構成する遺跡のひとつです。
これまでの発掘調査で弥生後期の集落跡と、古墳時代から平安時代の河川跡「伊場大溝(いばおおみぞ)が存在することが知られています。
伊場大溝からは木簡(もっかん)や墨書土器(ぼくしょどき)など古代文字資料が多数発見されており、近くに存在した敷智郡家(古代の郡役所)と密接に関わる遺構です。
今回の発掘調査では、伊場大溝の流路を確認しました。
検出した伊場大溝は、幅25メートル、深さ2.8メートルの規模で、古墳時代から鎌倉時代に至る大量の遺物が出土しました。
今回の調査においても、多数の文字関連資料が出土しており、3点の木簡や94点に及ぶ墨書土器が検出されました。
墨書土器の中には、梶子遺跡11次調査で発見された「廣勢(ひろなり)」・「散仕(さんじ)」と同様の土器が含まれており、敷智郡家における郡散仕(ぐんさんじ:古代の役職名)の存在を示す資料として注目できます。
また、伊場大溝の東岸では、多数の墨書土器を含む9世紀代の土器集積を発掘しました。平安時代の敷智郡家における祭祀に関連した遺構と考えられます。
宮竹野際遺跡は、天竜川下流西岸の平野部(浜松市東区宮竹町周辺)にあります。1986年の開発時に発見されて以降、これまでに5度にわたる調査が行われてきました。
今回の調査では、奈良時代から平安時代の自然流路から、陶硯(とうけん)や陶馬(とうば)、製塩土器のほか多数の墨書土器が出土しました。
これらの成果と、過去の調査結果を加味すると、宮竹野際遺跡においても古代の郡の役所に関連する施設があったと想定できます。
役所が置かれた郡名は、敷智郡の隣に位置する長上郡(ながかみぐん)とみられます。
今回出土した墨書土器には「北家(ほっけ)」と記されたものがあり、古代に呼び習わされていた施設名を伺うことができます。
狐塚古墳は、浜名湖を眼下に望む丘陵上にあり、当地域の有力な被葬者が想定できる古墳として広く知られています。
古くは老ヶ谷の古墳とも称され、長方板革綴短甲(ちょうほうばんかわとじたんこう)や鉄鏃(てつぞく)などが採取されています。
今回の調査によって、狐塚古墳は5世紀前葉(約1600年前)に築かれた一辺22メートルの二段築成の方墳で、葺石(ふきいし)と埴輪をそなえることが判明しました。
古墳の表面には拳大から人頭大の石を敷き並べた葺石が、上段、下段ともに認められました。
とくに、上段の葺石については残存状態が良好で、調査したほぼ全面において確認することができました。
上段と下段の斜面の間には幅1.8メートル程の平坦面が巡っており、ここに立ち並べていた円筒埴輪14点を検出しました。
出土品には、円筒埴輪のほか、蓋(きぬがさ:貴人に差掛ける笠)や家、盾などの形象埴輪がみられます。
浜松城は、天竜川下流西岸の洪積台地に立地しています。
浜松城の前身は、曳馬城であり、徳川家康により城名が浜松城に改められ、城域が拡張されました。
その後、豊臣系大名の堀尾吉晴が城主となり、石垣が築かれ、瓦葺建物が建てられました。
今回、天守門櫓台(やぐらだい)石垣内部を調査し、内部の裏込め石が比較的良好な状態で残存していることが判明しました。
裏込めは拳大の小礫を用い、石垣の内側1メートル程の幅で施されていました。
また、裏込め石のさらに内側は、盛り土によって櫓台が構築されていました。
浜松市博物館(中区蜆塚)において、浜松市埋蔵文化財速報展が開かれます。 展示の内容は、先に紹介した梶子遺跡、宮竹野際遺跡、浜松城跡の出土品を展示しています。 是非この機会に、埋蔵文化財速報展にお立ち寄りください。
4月には、こんな調査活動などを行いました。
5日 |
(木曜日) |
天竜区佐久間町 |
佐久間のヒムロ現地確認 |
---|---|---|---|
9日 |
(月曜日) |
南区若林町 |
井村遺跡工事立会い |
9日 |
(月曜日) |
中区森田町 |
鳥居松遺跡工事立会い |
17日 |
(火曜日) |
西区坪井町 |
海岸防災林管理広場清掃作業 |
18日 |
(水曜日) |
東区豊町 |
蛭子森古墳現地確認 |
19日 |
(木曜日) |
北区三ケ日町 |
眞香畑遺跡工事立会い |
20日 |
(金曜日) |
本庁 |
姫街道の松並木庁内調整会議 |
24日 |
(火曜日) |
浜北区 |
麁玉・赤佐地区分布調査[~25日] |
26日 |
(木曜日) |
西区役所 |
姫街道の松並木・東海道の松並木庁内調整会議 |
26日 |
(木曜日) |
西区篠原町 |
国方遺跡試掘調査 |
27日 |
(金曜日) |
中区上浅田 |
浅間遺跡試掘調査 |
5月19日(土曜日)~6月3日(日曜日)
県指定天然記念物「シブカワツツジ群落」
渋川つつじまつり
北区引佐町渋川
賀茂真淵記念館夏期講座
※申し込み締切:平成24年5月25日(金曜日)
第1講座 |
天野氏の肖像[全2回] |
平成24年7月4日 |
---|---|---|
第2講座 |
近世東海道の宿駅文化(遠江日置流の嫡伝について)[全2回] |
平成24年7月19日 |
第3講座 |
遠州の名城「二俣城」「浜松城」にみる築城技術[全2回] |
平成24年7月27日 |
(この記事は、浜松市メールマガジンとリンクしています)
浜名氏は、室町時代から戦国時代にかけて現在の北区三ヶ日町一帯を支配した一族です。
浜名氏は、鵺(ぬえ)退治の伝説で知られる源頼政(よりまさ)の子孫とされ、現在も三ヶ日町内には鵺退治伝説にちなんだ「鵺代」(ぬえしろ)という地名の場所があります。
浜名氏の歴代は室町幕府の奉公衆として重視され、将軍の側近として仕えるとともに歌人として活躍した者も多かったと伝えられています。
浜名氏の居館は当初鵺代にあったとされていますが、14世紀の半ば頃に浜名清政(きよまさ)が湖を挟んだ対岸に佐久城を築城し新たな拠点としました。
佐久城は浜名湖の支湖である猪鼻湖に突き出た半島の先端に築かれ、水上交通の拠点としても機能していたと推定されます。
戦国時代の浜名氏は、駿河の今川氏の支配下に入り桶狭間の戦いにも出陣しています。
桶狭間の戦いで今川義元が敗れ、今川氏の勢力が衰退すると三河から徳川家康が遠江進出を狙い圧力を強めてきます。
時の佐久城主浜名頼広(よりひろ)は、今川方に付いて佐久城に籠城し、家康に抵抗しますが、最後は甲州へと逃れ佐久城も開城し徳川方の手に落ちます。
佐久城の落城によって三ヶ日地区を約200年間に渡って支配した名門浜名氏は滅び、以後は徳川氏の支配下に置かれることになります。
青葉がさわやかな季節になりました。
浜松市博物館では、平成22~23年度に行った発掘調査で注目された梶子遺跡、宮竹野際遺跡、浜松城跡の調査成果をご紹介しています。
桜の花は散ってしまいましたが、心地よい季節の蜆塚公園を散策しながら、国指定史跡の蜆塚遺跡と合わせて、ぜひ展示にもお立ち寄りください!
→「文化財情報」平成24年度バックナンバーに戻る
→文化財トップに戻る
お問い合わせ
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください