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更新日:2023年3月24日
浜松市文化財情報/Vol.51
Vol.51 平成24年4月15日
平成22年に中区南伊場町で行った梶子遺跡13次調査の整理作業が完了しました。
梶子遺跡はJR東海浜松工場の一帯に広がっている遺跡で、南側に隣接する伊場遺跡とともに浜松市を代表する弥生時代から平安時代の遺跡として知られています。
発掘調査は社宅の建設に先立ち、平成22年の6月から11月にかけて行われ、100箱分にも及ぶ大量の遺物が出土しました。
現地調査終了後から、今年の3月にかけて西区神原町にある浜松市埋蔵文化財事務所で整理作業を行って来ました。
昨年度の整理作業は主に割れた土器の接合作業や、足りない部分を石膏で補う復元作業、遺物の実測図面の作成、写真撮影などを行い、「発掘調査報告書」と呼ばれる遺跡の発掘成果をまとめた本を作成しました。
主な出土遺物
墨書土器
整理作業の過程で、さまざまなことが明らかになりましたが、特筆すべきものとして伊場大溝と呼ばれる古代の川から出土した、3点の木簡と92点にも及ぶ大量の墨書土器があります。
残念ながら木簡は破損している部分が多かったり、書かれている文字が不鮮明で読み取れなかったりして、詳しい内容までは明らかにできませんでした。
墨書土器は奈良時代後半から平安時代に書かれたものが大半を占めています。
その中でも、特に「足」、「為」、「有」、「仁」、「寺」、「仲」など一文字書きのものが目立ちます。
これらは吉祥句(おめでたい言葉)と考えられ、墨書土器を使って祭りを行っていたと推定されます。
また、多数の墨書土器の中には「廣勢」・「散仕」と書かれたものが含まれていました。
偶然にも同じ文字が書かれた墨書土器が平成20年に南隣の敷地を発掘調査した際も出土しています。
前回出土したものと比較すると、書かれた文字が同じであるだけでなく、筆運びがよく似ているうえ、文字の位置関係や「廣勢」に対して少し小さく「散仕」を書くことなど非常によく似た特徴があります。
「散仕」とは奈良時代の郡家(郡の役所)に勤務した下級職員を指す言葉で、「廣勢」は人名を示すと思われます。
2点の土器は同じ人物が書いたものと考えられ、奈良時代に梶子遺跡周辺にいた人物に具体的に迫る資料として注目できます。
「廣勢」「散仕」墨書土器1
「廣勢」「散仕」墨書土器2
このほかにも多数の土器や、古墳時代のイヤリングである耳環、管玉などの玉類、鉄製の矢じり、乗馬に使う木製の鞍など珍しい遺物が多数出土しています。これらを掲載した発掘調査報告書は、近日中に浜松市内の主要な図書館に配架される予定ですので、ぜひご覧ください 。
去る4月7日(土曜日)・8日(日曜日)、中区住吉の上下水道部住吉庁舎で文化財登録記念特別公開「旧住吉浄水場文化財ツアー」を実施しました。
旧住吉浄水場の6施設は、東区常光町の旧常光水源地ポンプ室とともに本年2月23日に国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。
各施設とも、昭和6年の建設当時の姿を良好にとどめており、水の経路順に、着水井、接合井、配水池、直送ポンプ井、ポンプ室が並び、南側の通り沿いに正門が残っています。
この水の経路順に、建築士会浜松支部や市職員による解説ガイドが説明しながら、満開の桜が立ち並ぶ場内を歩いて巡りました。
花冷えのする寒い日でしたが、両日で400名を越える多くの方にご来場いただきました。
ツアーに参加された皆さまは、古典主義的な表現をはじめ、当時の国内外で流行していた意匠を混在させた豊かな装飾がなされている外壁や、当初から残るポンプ室内部の機
械類など、優雅さと力強さを兼ね備えた昭和初期の水道施設を肌で感じていただきました。
3月には、こんな調査活動などを行いました。
1日 |
(木曜日) |
東区市野町 |
別所前遺跡試掘調査 |
---|---|---|---|
6日 |
(火曜日) |
北区引佐町 |
三岳城跡遊歩道整備工事(~15日) |
7日 |
(水曜日) |
北区滝沢町 |
滝沢おくない保存会との意見交換 |
13日 |
(火曜日) |
浜北区貴布祢 |
旧平野家住宅現況調査 |
15日 |
(木曜日) |
西区入野町 |
入野古墳現況調査 |
19日 |
(月曜日) |
北区細江町 |
宝林寺諸像絵画修復状況現地確認 |
21日 |
(水曜日) |
北区細江町 |
遠江のひよんどりとおくない連絡協議会との意見交換 |
22日 |
(木曜日) |
天竜区春野町 |
旧王子製紙製品倉庫保存修理工事完成検査 |
26日 |
(月曜日) |
北区三ヶ日町 |
玉洞寺のサザンカ保護事業完了確認 |
27日 |
(火曜日) |
北区三ヶ日町 |
岡本神目代屋敷跡試掘調査 |
29日 |
(木曜日) |
北区三ヶ日町 |
愛宕平古墳整備工事(~30日) |
31日 |
(土曜日) |
北区引佐町 |
方広寺七尊菩薩堂災害復旧工事完成検査 |
5月5日(土曜日)
市指定無形民俗文化財「犬居つなん曳」
犬居つなん曳
午後6時頃~/天竜区春野町
5月19日(土曜日)~6月3日(日曜日)
県指定天然記念物「シブカワツツジ群落」
渋川つつじまつり
北区引佐町渋川
(この記事は、浜松市メールマガジンとリンクしています)
平成24年度は、1年間にわたって、浜松市にゆかりのある武将をご紹介します。
青山宗俊(むねとし)・忠雄(ただお)・忠重(ただしげ)三代は、江戸時代の浜松城主です。
浜松には、延宝六年から元禄十五年まで(1678~1702)在城しました。
青山家は徳川家康に仕えた古くからの三河武士で、宗俊の父・忠俊(ただとし)や伯父の幸成(ゆきなり)は、浜松で生まれています。
忠俊は、徳川秀忠・家光二代に仕え、大坂の陣など多くの合戦で活躍しました。
老中にまで出世しましたが、家光の怒りをかって何度か降格・配転の後、遠江国小林村(現浜北区)に隠棲させられたと記録にあります。
子の宗俊もこれに連座して蟄居していましたが、後に許されて大名家として復活します。
家光・家綱に仕え、大坂城代まで勤め、いわば隠居の地として、浜松城主を拝命しました。
その子・忠雄、さらに忠雄の弟・忠重は忠雄の養子として跡を継ぎました。
なお、宗俊は歴代浜松城主の中で、生前の家康に拝謁した最後の人物になります。
青山領分絵図
(海岸部分)
東京都港区に「青山」という地名がありますが、これは、その場所に青山家の下屋敷があったことから呼ばれるようになりました。
浜松市博物館常設展示室の床には、青山領分絵図の複製パネルを設置してあり、江戸時代の浜松南部の地形を観察することができます。
青山家は浜松藩領の掌握に熱心で、領内の見聞をすすめました。
この絵図は、浜松市南部の詳細な地図としては、現存する最古のものです。
本年4月から1年間、岩手県大船渡市へ復興支援のため、埋蔵文化財調査員を1名派遣しています。
復興と遺跡調査の関係は、新聞等でも時々取り上げられるなど、関心を集めています。
本文化財情報では、大船渡市における遺跡調査の様子など、派遣職員からの報告も、折に触れて紹介してまいります。
ご期待ください!
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