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更新日:2015年12月15日

浜松市文化財情報vol.95

平成27年12月15日発行

二俣城跡で新たな石垣を発見!

二俣城跡(天竜区二俣町二俣)は、天竜川と旧二俣川の合流地点に築かれた山城です。徳川・武田攻防の地として知られていますが、現在みられる石垣は、安土桃山時代に堀尾氏によって築かれたと考えられています。今年の10月に行われた発掘調査では、西曲輪や蔵屋敷の調査を行い、新たな石垣が確認されましたので、その成果をご紹介します。

 

西曲輪の調査

西曲輪の石垣<西曲輪の石垣>

昨年度の調査では、曲輪南面の石垣を確認しています。今回は、曲輪西面の調査を行ったところ、高さ約1.3m、幅約5mの規模で石垣が確認されました。石垣は3~4段しか残っていませんでしたが、裏込が曲輪の上部まで確認で
きたことから、本来の高さは2.5~3m程度であり、西曲輪に立派な石垣がめぐっていたことがわかりました。

蔵屋敷の調査

蔵屋敷の石垣<蔵屋敷の石垣>

曲輪西側に存在する帯状の高まりを調査したところ、土塁の可能性が高いことがわかりました。また、曲輪の西面では部分的に石垣と裏込も確認されました。ただし、出土遺物が少なく、石垣も後世に動かされている可能性があるため、引き続き検討が必要です。

調査成果から考えられること

二俣城平面図<二俣城平面図>

二俣城跡は、これまで大手門がある東側の景観を重視していると考えられてきました。しかし近年の調査で、西側にも立派な石垣が築かれていたことが判明しました。城の西側は、旧二俣川と天竜川の合流地点にあたります。当時は、船を用いた水運が盛んであり、西曲輪の石垣は船からの景観を意識して築かれたものではないかと推測されます。また、西曲輪の眼下には「川口」と呼ばれる古くからの集落が存在します。この集落はその立地状況から、船で二俣城へ往来する際の「玄関口」の可能性があり、そのよ
うな重要な場所に石垣を築いたとも考えられます。

公開活用事業

講座の様子<講座の様子>

10月18日(日曜日)には、静岡大学名誉教授本多隆成先生の講演会や発掘調査現地説明会を開催し、のべ330人の方にご参加いただきました。今後も、このような公開活用事業を積極的に実施していきたいと思います。

 

旧気多村立勝坂小学校が国の登録建造物になります!

旧気田村立勝坂小学校校舎 外観南面<旧気田村立勝坂小学校校舎 外観南面>

11月20日に、国の文化審議会文化財分科会は、浜松市天竜区春野町の「旧気多村立勝坂小学校」1棟を国の登録有形文化財として登録するよう、文部科学大臣に答申しました。これにより、近日中の官報告示を経て、正式に登録される予定です。浜松市内の国登録有形文化財(建造物)は、47件になります。

勝坂小学校は、明治38(1905)年5月に豊岡尋常小学校の勝坂分教場として始まった学校です。生徒数は昭和34年の生徒数62人を最多としましたが、以後減少し、昭和43年度には春野町立豊岡小学校に統合されました。

この校舎は、昭和31年2月の竣工で、集落のどこからでも望むことができる場所に位置して地域のシンボル的存在として親しまれ、今でも勝坂公民館として、あるいは浜松市指定無形民俗文化財・勝坂神楽奉納時の仕度所として利用されています。

校舎2階<校舎2階>

外観は当初から赤い屋根にピンク色の壁でした。周囲を山に囲まれて日照時間が少ない中、南面の窓は天井まで大きなガラスが入るなど、採光に工夫がみられます。

外観はいつでも見学することができます。

文化財日記抄 11月

2日(月曜日)、浜北区宮口、大屋敷古窯跡群ほか本調査開始~3月
4日(水曜日)、東区市野町、市野遺跡予備調査
5日(木曜日)、浜北区宮口、大屋敷遺跡予備調査
5日(木曜日)、磐田市役所、遠州広域行政会議
6日(金曜日)、浜北区宮口、土取2.遺跡予備調査
6日(金、南区高塚町、土高塚遺跡予備調査
10日(火曜日)、南区新橋町、新橋町村東遺跡予備調査
10日(火曜日)、引佐健文センター、引佐町自治会長協議

11日(水曜日)、中区神田町、神田遺跡予備調査
11日(水曜日)、北区引佐町井伊谷、正楽寺遺跡予備調査~11月12日
12日(木曜日)、東区中郡町、発掘体験(万斛幼稚園)
16日(月曜日)、中区元城町、浜松城17次予備調査~11月27日
17日(火曜日) 、東区和田町、木船廃寺遺跡予備調査
19日(木曜日)、東区中郡町、橋爪遺跡予備調査
24日(火曜日)、浜北区平口、辺田平古墳群予備調査~11月25日
24日(火曜日)、東区小池町、箕輪遺跡予備調査
25日(水曜日)、浜北区於呂、向山B古墳群・向山1.遺跡予備調査
27日(金曜日)、東区小池町、箕輪遺跡予備調査
27日(金曜日)、天竜区二俣町、他国土交通省視察
30日(月曜日)、浜北区於呂、東原遺跡工事立会

家康400年忌文化財めぐり 浜松城主徳川家康 武田の遠州攻め5. 三方ヶ原古戦場、犀ヶ崖古戦場

遠州味方カ原御合戦之図<遠州味方カ原御合戦之図>

信玄は、12月22日の朝浜松方面への進軍を始めました。神増(磐田市)から天竜川を渡った後、南進して欠下(東区)付近から三方原台地に登りました。軍勢の一部は、新原(浜北区)付近から三方原台地に登ったと言われています。大菩薩山で陣を整えた後、追分から祝田坂に至った付近で、出撃してきた徳川勢との合戦になりました。合戦開始時は夕刻で、当地ではめずらしく雪が降っていたようです。ご存知のように、戦いは徳川軍の大敗で幕を閉じました。

三方ヶ原の戦いに関しては、様々なエピソードが今に伝わります。そのひとつが犀ヶ崖にまつわる伝承で、崖に渡された白布を、武田軍が橋と勘違いして渡ろうとしたため、崖下に転落して多くの犠牲者が出たというもので、
「布橋」の地名の由来にもなっています。当時とは、犀ヶ崖周辺の景観は変わりましたが、現在も残る崖の一部は、静岡県指定史跡となっています。隣接した公園内には市立犀ヶ崖資料館が建っており、三方ヶ原の合戦につい
て紹介しています。
犀ヶ崖古戦場<犀ヶ崖古戦場>

このほかにも、「小豆餅」、「銭取」、「雲立の楠」など、市内には三方ヶ原の戦いに関する伝承の地が数多くあります。伝承の真偽はさておき、これらの地を巡ってみるのも楽しいのではないでしょうか。

編集後記

寒くなり落葉と枯草の季節がやってきました。文化財ブックレットを片手に歴史遺産巡りをしてみてはいかがでしょうか。下草や木の葉の少ない今の時期だからこその新たな発見が待っているかもしれません。(W)

 

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浜松市役所市民部文化財課

〒430-8652 浜松市中央区元城町103-2

電話番号:053-457-2466

ファクス番号:053-457-2563

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