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更新日:2015年7月15日

浜松市文化財情報vol.90

平成27年7月15日発行

堤町村東遺跡の発掘調査をしました

南区 堤町村東遺跡の発掘調査

6月に南区堤町の堤町村東遺跡の発掘調査を行いました。堤町村東遺跡は、過去の工事中に偶然土器が発見されたことにより存在が明らかになった遺跡です。この時見つかった土器は、古墳時代前期(約1,700年前)のものが中心で、まとまった出土内容から古墳時代前期の土器の基準の一つになっています。

調査区全景<調査区全景>

今回の発掘調査は、住宅の建設に先立ち約90平方メートルを対象に調査を行いました。遺跡は遠州灘が形成した砂丘上に立地しており、今回の調査地点も全面砂に覆われた中から遺構や遺物が見つかっています。遺跡は現在の地表面から80cmほど下に埋まっており、重機を使って掘り下げたのち、人力で砂丘の砂層に掘り込まれた遺構の検出を行ったところ、土坑や溝などの遺構が見つかりました。

鎌倉時代の土坑か 大型4基小型2基

鎌倉時代の土坑<鎌倉時代の土坑>

土坑は長さが1~1.5mほどの大型のものが4基、小型のものが2基見つかっています。出土遺物は少なめですが、鎌倉時代(約750年前)の山茶碗の破片が出土していることから、この頃掘られたものと考えられます。土坑の用途は明確ではありませんが、比較的大きなことから、素掘りの井戸などが想定されます。

江戸時代 土地建物区画用の溝か平行に4本

江戸時代の溝<江戸時代の溝>

溝は東西方向にほぼ平行な状態で4本見つかりました。いずれも幅約70 cmから90cm、深さ約30cmの規模で、溝の中から江戸時代(約400年前)の茶碗や皿、すり鉢の破片が出土しました。出土した土器はいずれも江戸時代の日常生活で用いられたものであり、溝は村の中の土地や建物の境などを区画するために掘られたものと推定されます。

出土遺物<出土遺物>

小規模な調査ではありましたが、堤町村東遺跡において初めて本格的な発掘調査が行われ、遺構や遺物が検出されたのは大きな成果と言えます。出土品は鎌倉時代から江戸時代にかけてのものが中心で、過去の出土品とともに、現在の堤町一帯に、古墳時代から各時代を通じて、絶えることなく人々が住み続けた証であると言えます。

長楽寺で祝賀儀礼 木造馬頭観音坐像の修復が完了しました

長楽寺の本尊、木造馬頭観音坐像(市指定有形文化財彫刻)が、平成26年春からの1年弱の保存修理を無事終えて帰山し、護摩堂に安置されました。

法要の様子<法要の様子>

大安の5月31日には、ご住職のほか檀家の皆様が集まり、お祝いをかねて法要が行われました。長楽寺は真言宗高野山派ですので、馬頭観音を安置する護摩堂の中では護摩がたかれ、炎が上がる中、鈴や太鼓の音や真言を唱える声が堂内を満たしました。

木造地蔵菩薩坐像<木造地蔵菩薩坐像>

馬頭観音の作者は不明ですが、鎌倉時代に造像されたと考えられています。寄木造りで、胴部から頭部までは一木で造られています。三面八臂の憤怒像で、頭上には白馬をいただいています。頭部の馬頭が全身像であることが極めて珍しく、持物(じもつ)の一つである、ほえる竜頭が付いた斧の把手には、滑り止めの為に縄を巻いていたものが文様として取り入れられているのも特徴的です。また、貫(ぬき)を用いて部材を緊結する堅牢なつくりなど、都の仏像には見られない特徴があります。(*美術院の修理報告書より)

文化財保存修理の考え方は、可能な限り現状維持で保存修理をはかるものです。修理後に“ピカピカ”になることはありませんが、調査や解体修理を経て今まで知られることが無かった特徴がはっきりし、着実に未来へと繋ぐことができる修理となりました。

-長楽寺のご案内-
住所浜松市北区細江町気賀7953-1
電話053-522-0478
<文化財>
県指定 梵鐘、長楽寺庭園
市指定 木造馬頭観音坐像

文化財日記抄6月

1日(月曜日)、南区堤町、堤町村東遺跡本調査~6月3日
1日(月曜日)、天竜区二俣町、二俣城跡現地踏査

2日(火曜日)、東区貴平町、恒武西宮遺跡予備調査
4日(木曜日)、中区元城町、引間城出土品出陳(参加160名)
4日(木曜日)、浜北区新原、東原遺跡工事立会
6日(土曜日)、浜北文化センター、旧鈴木家屋敷跡発掘調査報告会(参加151名)
8日(月曜日)、北区細江町、妙功庵観音堂保存修理工事着工式
8日(月曜日)、浜北区新原東原遺跡工事立会
9日(火曜日)、浜北区根堅、中通遺跡工事立会
10日(水曜日)、北区引佐町、農村歌舞伎伝承状況聞き取り調査
11日(木曜日)、東区笠井上町、笠井上組遺跡予備調査
13日(土曜日)、浜北区本沢合、文化財防災ボランティア見学会(9名)
13日(土曜日)、浜北区染地台、見学会「はままつの渡来文化をたずねて」(参加45名)
15日(月曜日)、北区都田町、須部1.遺跡予備調査
15日(月曜日)、浜北区根堅、中通遺跡工事立会
16日(火曜日)、中区松城町、浜松城跡予備調査(6月19日、29も実施)
16日(火曜日)、南区高塚町、高塚遺跡工事立会
23日(火曜日)、南区若林町、東若林遺跡工事立会
24日(水曜日)、浜北区本沢合、北浜の大カヤノキ周辺環境調査
24日(水曜日)、北区引佐町、浜松市無形民俗文化財保護団体連絡会総会
24日(水曜日)、南区恩地町、海東遺跡予備調査
25日(木曜日)、富塚協働センター、出前講座(参加100名)
25日(木曜日)、東区和田町、木船廃寺跡予備調査~6月26日
26日(金曜日)、浜北区於呂、芝本遺跡工事立会
29日(月曜日)、南区高塚町、高塚遺跡予備調査
29日(月曜日)、浜北区於呂、芝本遺跡予備調査

家康400年忌文化財めぐり 浜松城主徳川家康 家康、遠州に入る4 浜松城

天守台と天守門跡<天守台と天守門>

家康は、元亀元年(1570)の引馬城入り後、城域を西側の丘陵まで広げ、城名も浜松城と改めました。家康の家臣松平家忠が記した『家忠日記』には、天正6(1578)から同9年にかけて、数度の城普請の記録が残されています。元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いをはじめ、相次ぐ武田軍との攻防の中で、城の防御性を高めようとしていた様子がうかがえます。家康は、長篠の戦いや、小牧・長久手の
戦いなど大きな戦を経た後、天正14年には居城を駿府城に移し、17年にわたる浜松での生活を終えます。現在私たちが見ることのできる浜松城は、秀吉の家臣堀尾吉晴の入城(天正18年)以降に築かれた石垣の城の姿であり、家康在城期 の浜松城は、石垣のない土づくりの城と考えられていましたが、その姿は長らく不明でした。

堀跡の調査の状況<堀跡の調査の状況>

しかし、平成26年の発掘調査において、自然地形を生かした堀跡と考えられる遺構が確認されました。出土遺物や現地の土層の状況、江戸時代の絵図の描写などから判断すると、家康在城期には堀として機能していたものが、堀尾在城期以降に埋め立てられたと考えられます。そこからは、家康在城期における軍事優先の質実剛健な土づくりの城から、堀尾在城期以降には権力の象徴としての豪華な石垣と瓦葺建物の城へと大きく変貌していった浜松城の様子がうかがえます。

編集後記

暑さが厳しい季節になりましたが、これから浜松城、松下屋敷(頭陀寺城)、二俣城と、城跡にかかわる発掘調査が本格化します。注目の調査成果は本紙をはじめ、ホームページ、新聞などを通じて公開していきますので、どうかご期待下さい。(S)

 

 

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〒430-8652 浜松市中区元城町103-2

電話番号:053-457-2466

ファクス番号:053-457-2563

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