緊急情報
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更新日:2015年4月16日
平成27年4月15日発行
<ヤマタケの蔵全景>
「ヤマタケの蔵新蔵」、「ヤマタケの蔵南の蔵」、「ヤマタケの蔵北の蔵」の3棟を登録有形文化財として登録するよう文部科学大臣に答申しました。これにより、近日中に行われる官報告示を経て、正式に登録されます。浜松市内の国登録有形文化財(建造物)は、44件となります。
ヤマタケの蔵は、施主、あるいは元の所有者である内山家の屋号からそのように呼ばれています。主屋は平成6年に解体されており、現在は新蔵、南の蔵、北の蔵の3棟が残されています。
二俣の内山家は、明治期より山林業、回漕業等を手がけ、製材も行っていました。南の蔵の間取りには実業家の屋敷構えが見て取れるほか、新蔵の木材には欅や杉の良材を使用するなど、材木商らしい蔵の造りとなっています。
<ヤマタケの蔵新蔵>
敷地西奥に東面する。外壁はモルタル塗りで腰を洗出し仕上げとしており、上部は石造風に目地を切っている。衣裳部屋として建てられたもので、上下階とも座敷2室を配し地袋が造られている。下階には電話室がある。欅や杉の良材を用いた座敷蔵となっている。
<ヤマタケの蔵南の蔵>
新蔵の南側に東西に細長く建っている。外壁南面にはイギリス積煉瓦壁を現し、他の部分はモルタル塗で石造風に目地を切っている。内部は東から使用人部屋、便所、倉庫と間仕切りがされている。実業家の屋敷構えの様相を伝えている。新蔵との間に門がある。
<ヤマタケの蔵北の蔵>狐塚古墳(北区細江町)の全貌が明らかに!
新蔵の北側に東西に建つ。東端を落棟の平屋建てとしている。主体部と平屋部の南面に戸口を開き、南と西に窓がある。外壁は漆喰塗で、鉢巻を廻らしている。西裏面はモルタル塗の下屋を張出し、新蔵と同様の外観とすることで街路景観との調和をはかっている。
<墳丘調査状況>
2011年に発掘調査を実施した市内最大の方墳、狐塚古墳(北区細江町)の整理作業が完了し、きぬがさ形埴や鉄製のよろいなど、古墳時代(5世紀、約1600年前)の貴重な出土品の詳細が明らかになりました。
<きぬがさ形埴輪などの出土品>
きぬがさ形埴輪は、貴人に差し掛ける傘を象ったもので、幅50cm、高さ60cm。浜松市内では初めての復元例です。精緻な製作技術には、近畿地方との強い関係がみられます。一方、鉄製のよろいは、長方板革綴短甲(ちょうほういたかわとじたんこう)と呼ばれる形式で、浜松市内では唯一の出土例です。1960年代頃に狐塚古墳から出土しましたが、砕片化しており、長らく詳細な構造が不明でした。調査成果をまとめるにあたり復元検討を行い、全体の構造が判明しました。倭王権と密接なつながりをもっていた豪族が手に入れた武装具の実態をうかがううえでも貴重な事例です。
これら発掘調査成果をまとめた報告書は一冊1,000円で購入可能です。また、狐塚古墳の調査成果を紹介する企画展示「狐塚古墳とその時代」も下記のとおり、開催いたします。
調査報告書 好評販売中!
書名:『狐塚古墳』
内容:A4版、114頁
販売価格:1,000円
販売窓口:浜松市文化財課ほか
1日、(日曜日)、博物館、文化財防災ボランティア養成講座第4期1.(参加13人)
2日、(月曜日)、中区南伊場町、梶子遺跡工事立会
7日、(土曜日)、中区住吉町、住吉南古墳見学会(177人)
7日、(土曜日)、中区浅田町、浅間遺跡工事立会
8日、(日曜日)、博物館、文化財防災ボランティア養成講座第4期2.実技(参加13人)
9日、(月曜日)、天竜区二俣町二俣、鳥羽山城跡確認調査~3月10日
10日、(火曜日)、北区三ヶ日町魔訶耶、北区引佐町井伊谷
10日、(火曜日)、乾山古墳群確認調査~3月13日、彦根ボランティア協会施設見学
11日、(水曜日)、南区東若林町、村裏遺跡工事立会
11日(水曜日)、中区元城町、浜松城跡工事立会
15日、(日曜日)、博物館、文化財防災ボランティア養成講座第4期3.
17日、(火曜日)、4北区細江町小野、永畑遺跡予備調査工事
23日、(月曜日)、中区蜆塚町、歌謡遺跡予備調査工事
24日、(火曜日)、浜北区新原、東原遺跡工事立会
25日、(水曜日)、中区南伊場町、梶子遺跡工事立会
26日、(木曜日)、北区引佐町奥山、中村遺跡予備調査工事
26日、(木曜日)、南区増楽町、増楽町村中遺跡予備調査工事
26日、(木曜日)、西区雄踏町、
28日(土曜日)北区引佐町井伊谷狐塚古墳シンポジウム(参加90人)
小さなお知らせ
建造物や民俗、記念物などを担当している文化財保護グループは、4月から保護活用グループと名前が変わりました。
今年は、徳川家康が没してから400年の遠忌にあたります。このコラムでも浜松在城が足かけ17年に及ぶ、徳川家康の軌跡を市内の文化財とともにご紹介します。
<城之崎城(見付古城)の見取り図>
永禄3年(1560)5月、今川軍の先鋒として織田攻めに参戦していた家康は、桶狭間で大将・今川義元が織田信長に討たれたことで、その後の運命が一変しました。永禄11年(1568)12月、武田信玄が甲斐から駿河に侵攻するのと同時に、家康は遠江に侵攻を開始、井伊谷三人衆の手引きで井伊谷筋から遠州入りをはたします。頭陀寺の松下之綱(ゆきつな)も早くから家康に通じ、二俣城主や犬居城主も早い段階で家康から安堵状を受けているようですが、堀江城の大澤基胤(もとたね)らは今川方として抵抗します。
<堀江城の現況>
ただ支城の堀川城が永禄12年(1569)3月に落城すると、4月には和睦しています。家康と信玄は、大井川を挟んで緊張関係の中で対峙することになりました。家康は見付を拠点とするつもりでしたが、同盟者・信長の進言もあって、引間に変更しました。信玄配下の秋山信友が二俣経由で見付に侵攻して、さらに引間をうかがったことがあり、武田との関係上でも難があったのでしょう。家康は、安間郷(現東区内)にも一時陣を置いています。
引佐町方広寺釈迦三尊仏や根堅岩水寺秘仏の国重要文化財指定、また気賀吉野屋や二俣町ヤマタケの蔵が国登録文化財になるなど、市内の文化財が注目を高めています。本市では、今年度も市内の豊富な文化財をご案内してまいります。どうぞご期待ください。(Y)
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