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更新日:2014年12月12日
平成26年12月15日発行
浜松城は徳川家康が築城した城として知られています。しかし、豊臣家臣である堀尾吉晴の入城以降、石垣の構築をはじめとした大規模な改修が行われ、家康在城期における浜松城の姿は謎に包まれていました。9月から11月にかけて本丸南側で行った発掘調査により、幅約11m、深さ約2mの堀跡を発見しました。この堀は、埋まり方や出土品の時期から、家康が浜松城に居たころに造られた堀とみられます。家康在城期における浜松城の姿をうかがい知ることのできる唯一の遺構として、全国的に注目を集めています。
注目度が高く、家康在城期における浜松城の姿をうかがえる唯一の資料であるこの堀を、いつでも観察できるようにしたいと考え「土層剥ぎ取り」という方法で堀跡の標本を作製することにしました。土層剥ぎ取りとは、樹脂と布を用いて土層を薄く引き剥がし標本にする方法です。
11月7日(金曜日)に堀跡の土層剥ぎ取りを行いました。天気は快晴で、絶好の剥ぎ取り日和でした。
1. 剥ぎ取り作業開始!
土層の断面をきれいにします。この作業を疎かにしてしまうと、良い標本をつくることが出来ません。樹脂を刷毛でぬり、霧吹きで水を吹き付けます。透明な樹脂に水を掛けると白色に変わります。
樹脂が白色に変化するのは、水と樹脂が化学反応を起こして固まっているからです。水をかけると固まるなんて不思議な感じがしますね。
2. 裏打ち用の布貼り付け、固まるのを待つ
たわしでたたいて貼付けます。布を密着させるコツは、布の真ん中から外に向かって作業し、しわや空気を取り除くことです。樹脂は土中や空気中の水分にも反応するため、土壌の水分量や天気によって、樹脂にかける水の量を調節し、樹脂が固まりやすい状況にします。
3. 剥ぎ取る!
布が土層にしっかりと貼り付いているので、数人で力を合わせて剥ぎ取ります。力いっぱい引き剥がすので、きれいに剥ぎ取れるのかどきどきします。標本はとても重く、剥がす段取りを間違えると移動できなくなるので注意が必要です。
4. 剥ぎ取り作業完了!
土層を剥ぎ取った標本は、堀跡の大きさや質感を写真や図面よりもリアルに感じ取ることができます。現在標本は、調整や補強などの仕上げを行っています。
<木下直之先生のご講演>
11月29日(土曜日)、静岡文化芸術大学を会場に講演会&討論会「浜松城の景観を考える」を開催しました。文化財課(「浜松城5つのイメージ」)、公園課(「浜松城公園歴史ゾーンの計画について」)それぞれの報告に続き、木下先生に「戦後の復興と各地の城跡」と言うタイトルでご講演いただきました。
木下先生は浜松生まれ浜松育ち(母校は元城小学校!)と言うことで、先生ご自身の思い出も交えつつ、主に戦後の浜松城を取り巻く出来事や全国のお城(天守閣)の復興についてお話いただきました。空襲による城下町の喪失、浜松城に動物園があったこと、浜松こども博覧会でのハリボテ浜松城、浜松城再建のための陶製貯金箱・・・今でこそ天守台に天守閣が復元され浜松のシンボルのひとつとなっていますが、それまでにたどってきた歴史が垣間見えるご講演でした。
史跡として文化財に指定され、浜松城公園として憩いの場となり、そして戦後の復興の場なってきた浜松城はこれからどんな姿になっていくのでしょうか。近年ではショッピングモール等の影響もあり郊外に多くの人が流れていっています。「お城(浜松城)は裏返った町を再び裏返すことができるか(木下先生資料より)」、未来の浜松にはどんな浜松城があるのか。皆様も想像してみてください。
11月には、次のような調査活動等を行いました。
5日(水曜日)南区若林町、若林町村西遺跡予備調査
6日(木曜日)東区豊町、隋国遺跡工事立会
8日(土曜日)静岡市、静岡県発掘報告会
11日(火曜日)浜北市内野、井下石遺跡予備調査
14日(金曜日)東区中郡町、万斛西遺跡発掘体験(中郡小6年生)
15日(土曜日)東区中郡町、万斛西遺跡現地説明会
16日(日曜日)北区三ヶ日町、文化財防災ボランティア見学会(21名)
17日(月曜日)中区神田町、鳥居松遺跡予備調査
17日(月曜日)東区豊町、隋国遺跡工事立会
18日(火曜日)中区神田町、鳥居松遺跡予備調査
24日(月曜日)天竜区春野町、浜松戦国山城まつり(300名)
26日(水曜日)浜北区根堅、北谷遺跡予備調査
26日(水曜日)北区引佐町、北神宮寺遺跡工事立会
28日(金曜日)中区南伊場町、梶子遺跡工事立会
29日(土曜日)中区中央、浜松城の景観を考える(160名)
30日(日曜日)天竜区佐久間町、三遠南信ふるさと歌舞伎交流浜松・佐久間大会
日時 1月1日(木曜日)午前10時頃~
会場 四所神社(北区滝沢町)
日時 1月4日(日曜日)午前10時頃~
会場 林慶寺(北区滝沢町)
日時 1月3日(土曜日)午後1時頃~
会場 泰蔵院(天竜区懐山)
日時 1月3日(土曜日)午後2時~午後6時頃
会場 宝蔵寺観音堂(三日堂)(北区引佐町渋川)
日時 1月4日(日曜日)午後6時~午後11時頃/
会場 福満寺薬師堂(八日堂)(北区引佐町川名)
日時 1月4日(日曜日)午後1時頃~
会場 西神沢老人憩いの家(天竜区神沢)
日時 1月18日(日曜日)午前10時30分~
会場 雄踏文化センター(西区雄踏町)
~この記事は、浜松市メールマガジンとリンクしています~
軽便鉄道から始まった奥山線が全線廃線になってから50周年。奥山線跡地を中心に鉄道に関する知られざるエピソードをひもときます。
<キハ20系車両>
現在の天竜浜名湖線の前身である国鉄二俣線は、もとは大正9(1920)年に遠美線として計画された路線で、掛川から二俣、三河大野を経て大井(現在の岐阜県恵那市)までの約151kmを結ぶという大掛かりなものでした。ところが、大正12(1923)年に関東大震災が起こり、首都圏を中心に甚大な被害を受けたことから、この影響を受け計画は無期限の延期となってしまいます。
計画は、昭和7(1932)年に復活しますが、路線は掛川から二俣、三ヶ日を経由して新所原を結ぶ形に大きく変更されました。これは天竜川や浜名湖を跨ぐ東海道線の鉄橋を戦争により破壊された際の迂回路として、軍事上の必要性が大きく反映されたものでした。実際に、戦禍が激しくなった昭和20(1945)年には、東海道線が空襲や艦砲射撃により不通となり、本線、軍事列車の迂回運行が行われています。
二俣線の工事は、昭和8(1933)年に着工し、同10年に掛川~遠江森間が開通、その後同11年に新所原~三ヶ日開通、同13年に三ヶ日から延伸し金指までが開通、同15年の金指と遠江森間の開通
により全線(67.9km・28駅)が開通しました。同33年から41年にかけては、遠州鉄道の西鹿島から二俣・森までの乗り入れ運行も行われていました。
北遠地域と中東遠、三河を結ぶ人々の足として、また木材、セメントなどを運ぶ貨物路線としての役割を担ってきた二俣線ですが、モータリゼーションの発達による利用者の減少が進み、昭和59(1984)年には特定地方交通線に位置付けられ、同62年3月15日を持って廃止、第三セクターの天竜浜名湖鉄道(天浜線)へと引き継がれました。
<C58蒸気機関車>
天浜線には、現在も二俣線時代の施設がそのまま残るとともに、現役として活用されており、それらの多くが登録有形文化財となっています。また、往時活躍したC58蒸気機関車、キハ20系車両は、天竜二俣駅に静態保存されており、ご覧になることができます。
イベントが盛りだくさんな2014年でした。参加いただいたみなさん、ありがとうございました。2015年は、徳川家康がなくなって400年のお年忌が巡ってきます。今年同様、さまざまなイベントを計画していますので、お楽しみに。良い年末年始をお過ごしください(わ)
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