緊急情報
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更新日:2014年10月15日
平成26年10月15日発行
<浜松城 本丸南土塁の石垣>
自然の石を用いた野面積(のづらづみ)の技法が見てとれる
9月27日(土曜日)、アクトシティ浜松と浜松城を会場に「東海しろあとセミナー」が開催されました。セミナーは、午前中アクトシティ浜松にて、城跡の発掘調査事例報告、午後は発掘調査中の浜松城にて現地説明会という2本立ての内容で開催しました。
午前中の事例報告は、戦国時代における石垣をもつ城をテーマに、二俣城、鳥羽山城、浜松城など浜松市の最新城郭調査を文化財課職員から報告したのち、小牧市教育委員会の小野友記子さんから「信長の城づくり事始め~小牧山城の発掘調査から~」と題して、小牧山城の発掘調査成果をご報告いただき、続けて岐阜市教育委員会の高橋方紀さんから「地上の楽園岐阜城・織田信長公居館跡と題して岐阜城の発掘調査成果をご報告いただきました。
小牧山城は、織田信長が岐阜城に移るまでの4年間を過ごした城ですが、在城期間が短いことから、これまで美濃攻めのための簡易な城と考えられていました。ところが、発掘調査の結果、城内の広い範囲で地下に眠っていた石垣が現れ、信長によって石垣をもつ堅固な城として築かれたことが明らかになりました。
岐阜城は、小牧山城の次に信長が居城としましたが、ここから天下統一を目指して数々の戦いに出陣し、躍進を続けた場所として知られています。岐阜城は金華山の頂上に築かれていますが、近年の発掘調査で、金華山の麓にあった信長公居館の全貌が明らかになっています。居館は石垣と巨石列に囲まれ、金箔瓦を使った建物、立体山水画の庭園など、天下人にふさわしい居館であったと推定されます。
小牧山城、岐阜城ともに天下統一を目指した信長の城ということで、参加者の皆さんは熱心に耳を傾けていました。
<天守曲輪の石垣>
午後の現地説明会は、最新の調査成果について案内しました。今回の浜松城の発掘調査は、西端城曲輪と本丸南土塁の調査を行いました。いずれも天守曲輪や本丸の南側に位置していますが、江戸時代に描かれた浜松城の絵図には、空堀と石垣が描かれています。この絵図に描かれた場所を調査したところ、西端城曲輪では公園の下から空堀の跡が、本丸南土塁では現代の擁壁の下から石垣が見つかり、見事に絵図に描かれた浜松城の遺構と一致しました。絵図などの古記録と、発掘調査の結果が見事に融合した興味深い結果と言えます。
面然大士は、釈迦の弟子の阿難尊者のもとに現れ、餓鬼道に落ちて苦しむ母親を助けるために施餓鬼をすることを勧めたという餓鬼道の王です。火を吹く醜い鬼の姿で描かれることが多いのですが、人々を救う観音菩薩の仮の姿であるともいわれます。お盆行事の施餓鬼の法要には、面然大士像が祀られます。
写真の面然大士像は、画面中央に牛頭や馬頭の鬼神たちを従えた面然大士が、あの世で死者を裁くという十王の姿で描かれ、面然大士の上には地蔵菩薩が描かれています。この作品は、独湛禅師が京都宇治の黄檗山万福寺住持であった貞享5年(1688)に描かれたものです。
独湛禅師は中国福建省の出身で、承応3年(1654)27歳のとき隠元隆琦禅師に従って来日した。寛文4年5月(1664)37歳のとき旗本近藤登之助貞用の招きで金指へ来て黄檗宗初山宝林寺を開山しました。
言葉の通じない日本で独湛禅師は、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、禅の境地にいたることができると民衆に対し教え勧めました。書や絵をよくする黄檗宗の僧侶の中でも、独湛禅師は優れた絵画を数多く残したことで知られていますが、説話をわかりやすくユーモラスに描いた絵画には、民衆に黄檗禅を広めようとする独湛禅師の思いが描かれているようです。
<独湛禅師画 地蔵面然大士像>
<浜松市博物館 特別展>
初山宝林寺開創350年記念 浜松にもたらされた黄檗文化
9月には、次のような調査活動等を行いました。
1日(月曜日)、天竜区二俣町・中区元城・町東区大島町、二俣城跡調査開始(~26日)浜松城跡12次調査開始(~10月)上大瀬遺跡予備調査
2日(火曜日)、天竜区佐久間町、切開1.遺跡予備調査
4日(木曜日)、東区笠井町、笠井下組遺跡予備調査
9日(火曜日)、東区恒武町・北区三ヶ日町恒武西宮遺跡予備調査 野地遺跡予備調査
11日(木曜日)、西区馬郡町殿道東遺跡予備調査
14日(日曜日)、長野県阿南町遠州大念仏外部公演出演
16日(火曜日)、東区豊町上石原遺跡予備調査
18日(木曜日)、天竜区春野町瑞雲院山門保存修理委員会
18日(木曜日)、天竜区二俣町二俣城発掘体験
21日(日曜日)、天竜区二俣町二俣城跡現地説明会
22日(月曜日)、東区笠井町御殿山遺跡予備調査
25日(木曜日)、天竜区二俣町、二俣城発掘体験
26日(金曜日)、南区若林町、若林町村西遺跡予備調査
27日(土曜日)、中区板屋町・元城町、東海しろあとセミナー
28日(日曜日)、東京都板橋区、関東ブロック民俗芸能大会出演
28日(日曜日)、東区西ヶ崎町、出前講座(71名)
29日(月曜日)、天竜区春野町、瑞雲院山門保存修理落慶法要
~この記事は、浜松市メールマガジンとリンクしています~
<新幹線試乗会(昭和38年6月鴨宮)>
東京と大阪をおよそ4時間、そして大陸への玄関口の下関を最高速度時速200km、9時間で結ぶ高速鉄道計画「弾丸列車計画」は昭和15年(1940)に帝国議会の承認を得て着工されました。しかし、戦局の悪化に伴い昭和18年(1943)に工事が中止され、幻の鉄道計画となってしまいました。
戦後、日本が復興して高度経済成長を迎える中、日本の東西をつなぐ東海道本線の需要が高くなり、高速、大量輸送への要望が日増しに強まりました。日本国有鉄道の十河信二総裁は、新しく高速運転が可能な新線を建設することを決定し、昭和34年(1959)に世界銀行から新幹線建設資金の融資を受けて着工しました。工事は、浜松駅周辺の用地買収が難航したものの、戦前に計画された「弾丸列車計画」の際に確保された用地を利用したため、5年後の昭和39年10月1日に東京と新大阪間で東海道新幹線を開業することができました。まさに東京オリンピックが開催されるわずか9日前のできごとでした。
<新幹線試乗会(浜松駅下りホーム昭和39年9月)>
新幹線開業時に運転されていたのは超特急「ひかり」と特急「こだま」の2種類です。ひかりは当初は東京・名古屋・京都・新大阪にしか停車しませんでした。開業当時の東京~新大阪間の所要時間は、ひかりで4時間、こだまで5時間かかりました。現在は、平成4年(1992)に新しく投入されたのぞみが2時間25分、ひかりが約3時間、こだまが4時間となっています。
浜松駅は開業当時はこだまのみの停車でしたが、昭和55年(1980)にひかりが一部停車するようになりました,
萱葺屋根(かやぶきやね)は、葦やススキなどその土地にある材を用いるのが本来だとか。南国ではリゾート地付近の村でヤシの葉をヒモで束ねた屋根材の店をみかけ、ゴルバチョフ元ソ連大統領の回想録では、自身が藁で屋根を上手にふいたという文を発見。屋根にも注目!茅葺屋根の中村家住宅(西区)への遠足は如何?(お)
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