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更新日:2023年3月24日

賀茂真淵とその門流

賀茂真淵肖像画

賀茂真淵(かものまぶち)

賀茂真淵(1697~1769)は、江戸時代中期の国学者・歌人です。
遠江国敷智郡(ふちぐん)浜松の神官の家に生まれ、荷田春満(かだのあずままろ)に師事し、江戸に出て、八代将軍徳川吉宗の次男、田安宗武(たやすむねたけ)に仕えました。
真淵は、「万葉集」を研究し、万葉風の和歌を復興しました。
真淵は、契沖(けいちゅう)の実証性と春満の思想性を受け継いで、“国学”を樹立し、“国学の四大人(こくがくのしうし)”のひとりとして称えられています。
真淵の著述は、『冠辞考(かんじこう)』、『万葉考』、『にひまなび』など、語学・古典研究・歌学・思想・歌文集・雑録など87部309巻もあります。
また、真淵は本居宣長(もとおりなが)をはじめ、“県門の四天王”と呼ばれた、橘千蔭(たちばなのちかげ)、村田春海(むらたはるみ)、楫取魚彦(かとりなひこ)、加藤宇万伎(かとううまき)等、多くの優秀な門人を養成しました。

県門(けんもん)

真淵は“県居翁(あがたいおう)”とも呼ばれ、そこから真淵の門人を指して“県門”と呼び慣わされています。真淵の門人は多く、340名を数えますが、そのうち三分の一は女性でした。
油谷倭文子(ゆやしずこ)・鵜殿余野子(うどのよのこ)・土岐筑波子(ときつくばこ)が有名で、この三人を“県門の三才女”と呼びました。
遠江の県門では、内山真龍(うちやままたつ)、栗田土満(くりたひじまろ)が有名ですす。女性では、森繁子がいます。

本居宣長

本居宣長(1730~1801)は、伊勢松坂(三重県松阪市)に生まれ、上京して堀景山に漢学を、武川幸順らに医学を学び、松坂に戻ってからは、町医者として生計を立てながら、古典研究・詠歌に励み、真淵との対面“松坂の一夜”をきっかけに、真淵の学問を継承、完成しました。
宣長の学問は、内容から三つに分けられます。

文学説

『紫文要領(しぶんようりょう)』『石上私淑言(いそのかみささめごと)』『源氏物語玉の小櫛(げんじものがたりたまのおぐし)』などがあり、、“もののあはれ”説は文芸を文芸として独立させた点で画期的です。

語学説

『てにをは紐鏡』『詞の玉緒(ことばのたまお)』は、“係り結びの法則”を明らかにしたものですし、『活用言の冊子(かつようげんのそうし)』は“活用論”を導き、『漢字三音考』は、字音の伝来を説き、『字音仮名用格(じおんかなづかい)』は、字音の仮名遣いを推定しました。

古道説

『直毘霊(なおひのみたま)』『くず花』『玉くしげ』等があり、古道論の立場からの注釈に、35年もかかった『古事記伝』の大著があり、これは古学・古道の百科全書です。

宣長の門人は488名を数えますが、遠江の門人は、石塚龍麿(いしづかたつまろ)、夏目甕麿(なつめみかまろ)、高林方朗(たかばやしみちあきら)、小国重年(おぐにしげとし)、竹村尚則(たけむらなおのり)の人たちの名前が知られています。
また、石川依平(いしかわよりひら)は春庭(宣長の実子)の、小栗広伴(おぐりひろとも)は大平(宣長の養子)の門人です。

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電話番号:053-456-8050・ファクス番号:053-456-8050

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