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更新日:2016年8月31日

女城主井伊直虎ゆかりの地浜松

第9回 直虎の死と直政の出世(2016年8月31日投稿)

直虎の死と直政の出世

第9回01鎧

武田信玄が死去し武田氏の勢力が弱まると、家康は遠江の領有を安定させます。直虎は井伊家復活のため、浜松を居城としていた徳川家康と虎松を引き合わせるよう画策します。まず直虎は、鳳来寺から戻ってきた虎松を、虎松の母親の再婚先である頭陀寺・松下氏のもとに養子に入れました。そして天正3年(1575年)、直虎は15歳の虎松を家康に引き合わせます。虎松は小姓として家康のそばに仕えることになり、名を「万千代」と改め、井伊谷に領地を持つことを許されました。

その後、万千代は数々の功績を打ち立てていきます。武田家との戦いで功績を挙げた後、天正10年(1582年)には、本能寺の変からの混乱の中、“決死の伊賀越え”で家康の帰還に奮闘しました。
しかし同年8月26日、万千代の勇姿に安堵したのか、直虎は40数年の生涯を閉じます。

万千代は、直虎の死を見届けた後に元服し、「直政」と名乗ります。全軍を赤い鎧で揃えた「井伊の赤備え」を率いて、直政は「井伊の赤鬼」として恐れられるほどの活躍をし、やがて徳川四天王の1人と称されるまでに出世しました。
しかし、慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いで負った鉄砲傷が癒えず、直政はこの世を去りました。
直政亡き後は、息子たちが居城を彦根城に移し、30万石の近江彦根藩主として繁栄の基礎を築き、代々で江戸幕府を支えていったのです。

頭陀寺

直政が養子として育った松下屋敷は、中央区頭陀寺町にあり、頭陀寺城とも呼ばれていました。城跡は現在頭陀寺第一公園となっており、屋敷跡の記念碑が建っています。浜松市では松下屋敷跡の発掘調査を行っており、これまでに建物の礎石や陶器などが発見されています。
また、近くには国の重要文化財に指定される「頭陀寺」もあります。敷地内には願掛三尊や松下稲取堂などがあり、稲荷堂は松下屋敷から移設されたもので、赤い鳥居が印象的です。

第9回4頭陀寺

【頭陀寺】
浜松市中央区頭陀寺町214

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