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更新日:2016年8月25日
永禄11年(1568年)井伊谷城を出て龍潭寺松岳院に身を寄せた井伊直虎。この時、8歳の虎松(のちの直政)は戦乱を避けて三河の鳳来寺へ、虎松の母は頭陀寺付近に拠点をもつ松下家に嫁ぎ、母子は離れ離れになります。
徳川家康の遠江侵攻後、徳川家の支配下となった井伊領ですが、元亀3年(1572年)、大事件が起こります。すでに駿河に進出していた武田信玄が上洛を目指し、遠州に攻めてきたのです。手始めに武田方の山県昌景(やまがたまさかげ)の軍勢が井伊領に侵攻、井平(いだいら)城近くの仏坂(ほとけざか)に迫り、徳川方の井平軍と激戦を交えます。この戦いで井平軍は敗れ、多くの武将が亡くなりました。この時の戦死者のお墓は「ふろんぼ様」と呼ばれ、今でも地域の人たちによって供養されています。
この「仏坂の戦い」は「三方ヶ原の戦い」の前哨戦といわれています。
この戦いの2カ月後、ついに徳川軍と武田軍は三方ヶ原で激突。家康は大敗して総崩れとなり、浜松城へ逃げ帰ることとなります。一方、武田信玄も進軍の途中で病に侵され、甲斐に撤退中に亡くなりました。
この三方ヶ原の戦いを伝える資料館が、中央区鹿谷町にある「犀ヶ崖資料館」。三方ヶ原の戦いでの敗戦後、犀ヶ崖では、浜松城に逃げ帰った徳川軍が、崖に布の橋を掛け、武田軍をあざむき追い落としたと伝わっています。館内には、情景作家の山田卓司さんが制作したジオラマが展示されていて、三方ヶ原の戦いを目で見て学ぶことができる貴重な資料館となっています。また、三方ヶ原の戦いに関する資料のほか、合戦の死者の霊を鎮めるために始まったといわれる遠州大念仏も紹介しています。
【犀ヶ崖資料館】
浜松市中央区鹿谷町25-10
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