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更新日:2016年8月18日

女城主井伊直虎ゆかりの地浜松

第7回 築山殿と松平信康の悲劇(2016年8月17日投稿)

今回は番外編ということで井伊家とのつがなりのある「築山殿(つきやまどの)」と、その子である「松平信康」に起こった悲劇についてご紹介します。

築山殿と松平信康の悲劇

築山殿は、駿府(静岡市)にて今川家の重臣・関口刑部親永(せきぐちぎょうぶちかなが)と井伊直平(井伊直虎の曽祖父)の娘との間に生まれ、直盛(直虎の父)や直親のいとこにあたるとされています。
今川義元の政略で松平元信(のちの徳川家康)に嫁ぎ、永禄2年(1559年)には長男である松平信康を出産。しかし、生まれてすぐに信康は今川家の人質として駿府で過ごすこととなります。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、家康は混乱に乗じて岡崎城に入城。名実ともに岡崎城主となると、築山殿と人質になっていた信康も岡崎城に移り住みます。永禄5年(1562年)には織田信長と清州同盟を結び、今川家と敵対関係になります。そして永禄10年(1567年)、9歳となった信康は信長の娘・徳姫と結婚します。

元亀元年(1570年)、家康が浜松城に移ると、信康は岡崎城主となりますが、天正7年(1579年)、信康に悲劇が襲いかかります。悲劇のきっかけは徳姫が織田信長に送った12ヶ条の訴状だったと言われています。この訴状には、「築山殿が武田勝頼と内通している」といった内容が記されていたとされていて、この内容に織田信長が激昂。築山殿と信康の処刑を要求しました。熟慮の末、信長との関係を重視し、身を切る思いで、築山殿の殺害と信康の切腹を命じました。築山殿は徳川家臣によって佐鳴湖畔で殺害され、信康は二俣城(天竜区二俣町)で自害しました。

築山殿殺害の際に刀に付いた血を洗ったといわれる場所は太刀洗の池(中央区富塚町)として現在に伝わり、また西来院(中央区広沢一丁目)には、築山殿の墓碑が安置されています。


築山殿の墓碑

二俣城跡


【二俣城跡】
浜松市天竜区二俣町二俣

太刀洗(たちあらい)の池


【太刀洗の池】
浜松市中央区富塚町328(浜松医療センター駐車場内)

西来院(せいらいいん)


【西来院】
浜松市中央区広沢2-10-1

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