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更新日:2016年10月12日
天正10(1582)年の夏も終わる頃、直虎は床に伏しがちになり、松岳院で養生をしながら両親の追善供養に努める日々を送っていました。この直虎を井伊家の唯一人の身内、大叔父南渓和尚がたびたび訪れ、見舞います。その折、徳川家康に預けた直政の出世ぶり、活躍話を聞くことが直虎の楽しみでした。
伊賀越えより無事岡崎に戻った直政は、井伊谷に帰る暇もなく、7月には家康の甲信出兵に従い信州若神子(わかみこ)で北条軍と対峙しております。一方直虎は、病が進み、秋の半ばを過ぎた8月26日(8月は旧暦では秋)、南渓和尚をはじめ傑山(けっさん)、昊天(こうてん)など弟子達の見守る中、安らかに、推定47歳の波乱に満ちた生涯を松岳院で閉じました。
直虎の訃報は出陣中の直政にも届きます。母と慕った養母直虎の死に目にも会えず、直政は深い悲しみにくれたと伝えられています。葬儀は龍潭寺において南渓和尚導師のもと執行されました。直虎の菩提は龍潭寺と妙雲寺で弔われています。
さて、若神子での徳川軍と北条軍の対立は10月に入り講和となりました。弱冠22歳の直政が選ばれて徳川の使者となり、大任を果たし、その功績で4万石に加増されます。この冬に直政は家康より旧武田家臣山県衆の「赤備え隊」を付属されます。この赤備え隊が天正12年に小牧・長久手の戦いで大活躍し、直政は6万石に加増され、直虎の願いであった井伊家復興を見事に成し遂げました。時は流れ、天正17(1589)年9月28日、直虎とともに井伊家を守り井伊家再興に尽力した龍潭寺2世南渓和尚が逝去しました。
天正18(1590)年、直政は関東に移り上州(群馬県)箕輪12万石城主に出世、徳川軍団の筆頭となります。さらに慶長5(1600)年、関ヶ原合戦で東軍勝利の原動力となる働きをし、「開国の元勲」と家康に称され、佐和山18万石城主になりました。
滅亡寸前の井伊家の危機の中、遺児直政に全てを托し、ひたすら遠江の名門井伊家再興に身命を賭した「おんな城主直虎」の夢は、ここに結実したのです。【完】
執筆:武藤 全裕(ぜんゆう)さん(龍潭寺前住職)
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