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更新日:2016年7月4日
井伊直虎が徳政実施文書に署名した永禄11(1568)年11月9日、井伊領は今川氏の支配するところとなり、氏真と通じていた井伊家筆頭家老の小野但馬が井伊谷城の城番になります。小野但馬による井伊領の横領です。直虎は城を出て、母とともに龍潭寺境内にある松岳院に移ります。直親の内室(妻)は頭陀寺の土豪、松下源太郎と再婚します。
8歳の直政は南渓和尚と直虎の計らいで、三河の鳳来寺に預けられます。この時期、遠州を取り巻く今川氏(駿河)、徳川氏(三河)、武田氏(甲州)の勢力は大きく動きます。この情勢を南渓和尚は的確につかんでいました。井伊家に残された唯一の男児である直政を、戦乱の地になる井伊谷より安全な鳳来の地へ移し、保護したのです。
同年の12月15日、三河より岡崎城主の徳川家康が遠州に侵攻し、陣座峠を越えて奥山に入り、井伊城を平定します。城番の小野但馬はいち早く三岳の山中に逃げ隠れます。但馬は翌年、家康によって捕らえられ、処刑されてしまいます。
家康が井伊領を占拠したわずか4年後の元亀3(1572)年、甲州より武田信玄が2万5千の大軍を率いて遠州に侵攻、三方原合戦がおき、家康は大敗します。勝った武田軍は翌天正元年1月3日まで井伊領内に滞陣し、引き上げます。この合戦で井伊谷の神社仏閣はことごとく炎上した、と「井伊谷の歴史」は伝えています。また、直虎は母と共に奥山に避難したとの話も残されています。
天正2(1574)年12月、龍潭寺で直親の13回忌法要が行われ、鳳来寺より直政も戻り参列しました。法要の席で、南渓和尚を中心に直虎、直虎の母が井伊家再興、直政の将来につき真剣に話し合いがなされます。そして、お家再興のため、三河より浜松に移った徳川家康を頼り、直政を出仕させることに決まりました。
法要が終わり、直政は実母に連れられ、松下源太郎の家に入り、源太郎の養子となります。
執筆:武藤 全裕(ぜんゆう)さん(龍潭寺前住職)
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