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更新日:2016年7月4日
永禄3(1560)年の5月19日、井伊家を震え上がらせた大事件が起きました。桶狭間の合戦で、直虎の父である井伊家当主22代直盛が戦死したとの知らせが入ったのです。
この年の始め、駿河・三河・遠江の大守今川義元は、2万5千の大軍を率い、かねてよりの夢であった尾張征服を目指して西上しました。永正10年の戦(いくさ)で今川氏に屈し、その配下にあった井伊氏は出陣命令を受け、領地内の武将16人をはじめとする5百人の軍勢を率いて堂々と出陣しました。井伊城では、留守を守る家臣に混ざり、父の無事帰還を願って見送る直虎の姿がありました。
戦いは、わずか3千の兵を率いる織田信長の奇襲により、総大将今川義元は討ち取られ、今川勢は総崩れし敗走します。
この時、今川義元本陣の前衛を守っていた井伊直盛軍は信長軍に突撃、壮絶な戦いとなり、直盛に従った16人の武将はことごとく討ち死にしてしまいます。これが最後と覚悟した直盛は介錯を奥山孫一郎に頼み、直盛の亡き後には一族の家老中野信濃守(しなののかみ)が城を預かるように遺言を残し、その生涯を終えます。
龍潭寺本堂(北区引佐町井伊谷)
直盛戦死の報を聞いた直虎は深い悲しみの中で、一人娘を溺愛してくれた父のこと、何よりも父に隠れて出家をして悲しませたことを母とともに回想して、涙を流していたと思われます。戦死した直盛と16人の武将の葬儀は、南渓(なんけい)和尚により龍潭寺で執り行われました。龍潭寺の古代過去帳には、直盛をはじめ、戦死した武将の名前が法名とともに記帳され、残されています。
16人の武将は、今でも龍潭寺墓所内で静かに眠っています。
井伊直盛公の墓(龍潭寺敷地内)
執筆:武藤 全裕(ぜんゆう)さん(龍潭寺前住職)
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