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更新日:2016年7月4日
天文13(1544)年、謀反の疑いにより駿河で今川義元に討ち取られた井伊彦次郎直満(ひこじろうなおみつ)(亀之丞の父)と井伊平次郎直義(へいじろうなおよし)(直満の弟)の遺体は、井伊谷まで運ばれ、龍泰寺(りょうたいじ)(龍潭寺)で葬られました。直満の法名(ほうみょう)は「安渓岱公禅定門(あんけいたいこうぜんじょうもん)」、直義の法名は「即休成心禅定門(そっきゅうじょうしんぜんじょうもん)」と、古代過去帳に記されています。
両人の墓は「井殿の塚」と呼ばれ、今でも井伊家の居館跡に祀られています。タブノキの巨木が両人の墓を抱くようにして、守っています。
井殿の塚(北区引佐町井伊谷)
一方、今川の追手を逃れた亀之丞は弘治元(1555)年までの10年余り、信州市田(長野県高森町)の松源寺(しょうげんじ)で保護されました。その間、市田の城主松岡貞利(まつおかさだとし)より武芸・学問の教授を受け鍛錬に励み、立派な青年武士に成長しました。
亀之丞の命を狙った井伊家筆頭家老小野和泉守(おのいずみのかみ)が亡くなると、亀之丞は10年ぶりに井伊谷に帰国し、直盛の養子となります。そして、名を直親(なおちか)と名乗り、奥山朝利(おくやまともとし)の娘と結婚します。直盛は2人の新居を井伊谷の南、山1つ隔てた祝田(ほうだ)(北区細江町中川)の地に建てました。直親夫妻を城近くの元屋敷に住まわせなかったのは、かつての許嫁であった娘直虎の心情を思いやった父・直盛の計らいと推察されます。
出家をした直虎は、南渓和尚より授けられた「次郎法師」を名乗ります。井伊谷城に居る時は、優しい両親の愛情に包まれ心静かな日々を送り、時には神宮寺川を渡り龍潭寺を訪れ、弟子に混ざり厳しい座禅修行に励んでいたことでしょう。
執筆:武藤 全裕(ぜんゆう)さん(龍潭寺前住職)
亀之丞をかくまった東光院(北区引佐町渋川)※拝観は行っていません。
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