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更新日:2018年11月8日
1898年(明治31年) |
浜松市中央区成子町に生まれる 南尋常小学校から浜松中学校(現在の浜松北高)、第一高等学校(旧制)、 東京帝大(現在の東京大学法学部政治学科)に進む |
1916年(大正5年) |
周辺の水泳部を統括する「浜名湾游泳協会」の設立に関わる |
1924年(大正13年) | 東京帝大卒業、朝日新聞社に入社 |
1929年(昭和4年) | 日本水上競技連盟理事 |
1930年(昭和5年) | 日本体育協会専務理事 |
1931年(昭和6年) |
日米対抗水上競技大会を提案 第1回大会を実現し、40-23で日本が勝つ |
1932年(昭和7年) |
第10回ロサンゼルスオリンピック水泳総監督 田畑政治は水泳総監督として参加、水泳だけで12種目のメタルをもたらし、 水泳大国ニッポンを印象づけた。 |
1936年(昭和11年) |
二・二六事件 第11回ベルリンオリンピック本部役員 1940年の第12回オリンピックの東京開催が決定 |
1937年(昭和12年) |
日中戦争勃発 |
1938年(昭和13年) |
東京オリンピック中止決定 嘉納治五郎が船中で死去 |
1939年(昭和14年) |
第二次世界大戦勃発 日本水上競技連盟理事長 |
1940年(昭和15年) | 第12回ヘルシンキオリンピック中止 |
1944年(昭和19年) |
第13回ロンドンオリンピック中止 |
1945年(昭和20年) |
第二次世界大戦終戦 戦時中、日本のスポーツ界は軍部の統制下に置かれて、各競技団体は解散を命じられ、「大日本体育会」に集約。しかし、田畑政治は日本水上競技連盟を解散せず、終戦2か月後に日本水泳連盟と改称して理事長に就任。 国際水泳連盟への復帰を目指した。 |
1946年(昭和21年) | 日本体育協会常務理事 |
1947年(昭和22年) |
朝日新聞取締役 |
1948年(昭和23年) |
日本オリンピック委員会総務主事 日本水泳連盟会長 第14回ロンドンオリンピック開催 敗戦国の日本は参加を認められず、田畑政治はロンドンオリンピックと同じ日に 神宮プールで水泳協議会を実施。その結果、古橋廣之進と橋爪四郎が 1500メートル自由形で世界新記録を樹立。 この記録はオリンピックの優勝者を大きく上回る記録であった。 |
1949年(昭和24年) |
日本水泳連盟が国際水泳連盟へ復帰 ロサンゼルス全米水泳選手権に参加 朝日新聞常務取締役 |
1951年(昭和26年) |
日本体育協会専務理事 |
1952年(昭和27年) |
アジア競技連盟評議員 第15回ヘルシンキオリンピック日本選手団団長 |
1954年(昭和29年) | 第2回アジア競技大会(マニラ)日本選手団団長 |
1955年(昭和30年) | 第3回アジア競技大会(東京)組織委員会事務総長 |
1956年(昭和31年) | 第16回メルボルンオリンピック日本選手団団長 |
1959年(昭和34年) |
1964年の東京オリンピック開催決定 東京オリンピック大会組織委員会事務総長 |
1960年(昭和35年) |
東京オリンピック選手強化本部本部員 |
1961年(昭和36年) |
日本水泳連盟名誉会長 |
1963年(昭和38年) |
東京オリンピック選手強化特別委員会委員 |
1964年(昭和39年) |
第18回東京オリンピック開催 |
1965年(昭和40年) | 日本体育協会理事 |
1966年(昭和41年) |
ユニバーシアード東京大会組織委員会顧問 札幌冬季オリンピック組織委員会顧問 |
1968年(昭和43年) |
静岡県体育協会会賓 東京スイミングセンターを設立 |
1969年(昭和44年) |
日本オリンピック委員会常任委員 勲二等瑞宝章受章(スポーツ振興功労) 札幌冬季オリンピック大会組織委員 |
1971年(昭和46年) | 日本体育協会副会長 |
1972年(昭和47年) | 札幌冬季オリンピック開催 |
1973年(昭和48年) | 日本オリンピック委員会委員長 |
1977年(昭和52年) |
日本オリンピック委員会名誉委員長 IOC功労章(銀賞)受賞 |
1980年(昭和55年) | 昭和54年度朝日賞受賞 |
1983年(昭和58年) |
日本体育協会名誉副会長 |
1984年(昭和59年) |
死去 正四位勲二等旭日重光章受章 |
(水泳ニッポンの父 田畑政治展~2019年大河ドラマ「いだてん」主人公の一人~より ※敬称略)
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