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更新日:2017年4月14日
二俣は古来、遠江の平野部と北遠の山間部を結ぶ交通の結節(けっせつ)点で、遠州平野の扇の要として重要な役割を果たしていました。そして二俣城は、天竜川と二俣川に挟まれた山城で、武田信玄・勝頼親子と徳川家康が激しい攻防を繰り広げました。天正7(1579)年、井伊直平の孫と言われる築山殿(つきやまどの)(瀬名(せな))を母に持つ徳川家康の長男、松平信康が悲劇の切腹を遂げた場所でもあります。現在は野面積みの石垣を残す天守台や大手門・堀跡などが残っています。
天竜区内で案内している「天竜ふるさとガイドの会」会員のお二人にお話を伺いました。
一説によると、信康は織田信長の怒りを買い、二俣城に幽閉されていました。母親の築山殿は織田家に背いたとして、佐鳴湖畔(大刀洗の池)で殺害されました。その後信康も切腹を命じられ、二俣城でその生涯を終えたそうです。現在残っている石垣は、その頃の城主・大久保忠世(ただよ)から後の時代に堀尾氏が築いたものとみられ、信康が幽閉されていた頃の景色とは異なります。当時、信康がどんな想いでこの地に過ごし、家康が妻や息子の死をどんな思いで受け止めたのか想像しながら、知識を深めています。これからお客さまが訪れた際に井伊家に関する情報もご案内できるようにしていきたいです。
久保田敦博(としひろ)さん(左)、瀧謙乙(けんいち)さん(右)
二俣城跡
(広報はままつ2017年4月号)
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