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更新日:2023年3月31日

木下恵介略年譜

大正元年 (1912)

12月5日、浜松市伝馬町の食料品店に生まれる。本名正吉。父周吉。母、たま。

大正7年 (1918)

浜松尋常高等小学校(現浜松市立元城小学校)に入学。
小学校3年の頃から、さかんに映画館で映画を見る。

大正14年 (1925)

浜松工業学校(現静岡県立浜松工業高等学校)に入学。
紡織科を選んだが性に合わず、映画の道を夢見る。

昭和3年 (1928)

東京の日比谷写真館、工藤写真研究所で修業。
オリエンタル写真学校で学ぶ。

昭和8年 (1933)

松竹蒲田撮影所に入る。島津保次郎監督の撮影助手となる。

昭和11年 (1936)

大船撮影所開所。島津保次郎監督に引き抜かれ助監督部に移る。

昭和15年 (1940)

召集令状を受け、中国各地を転戦。

昭和16年 (1941)

病気のため野戦病院に入院。召集解除となる。

昭和18年 (1943)

第1回監督作品「花咲く港」公開。

昭和19年 (1944)

「陸軍」公開。ラストシーンで息子を追う母親の姿が、陸軍から軍国の母として女々しいと批判されたため、辞表を出し浜松に帰るが、所長に遺留される。

昭和21年 (1946)

戦後第1作「大曾根家の朝」公開。

昭和26年 (1951)

「カルメン故郷に帰る」が日本最初のカラー劇映画第1作として公開。
日本映画文化賞受賞。
ヨーロッパ遊学。パリを中心に、ヨーロッパの国々の歴史や文化を8ヶ月 にわたって学ぶ。

昭和29年 (1954)

「二十四の瞳」公開。国内外の各映画賞を獲得し、その数は四十余に のぼる。

昭和30年 (1955)

「野菊の如き君なりき」公開。回想シーンを白い楕円形のマスクで囲う、実験的な手法を用い、高い効果を生んだ。

昭和32年 (1957)

「喜びも悲しみも幾歳月」公開。芸術祭賞を受賞。

昭和33年 (1958)

「楢山節考」公開。全編セットで歌舞伎的手法を用い、様式美に徹した 異色作で、海外で高い評価を受けた。

昭和39年 (1964)

「香華」を最後に31年間の松竹生活にピリオドをうち、退社。積極的に テレビ界へ進出。
「木下恵介劇場」、「木下恵介・人間の歌」など、数多く のテレビドラマを手がける。

昭和52年 (1977)

紫綬褒章を受章。

昭和54年 (1979)

映画に復帰。社会問題に関心をもち、「衝動殺人 息子よ」などの話題作を生む。

昭和59年 (1984)

秋の叙勲で、勲四等旭日小綬章を受章。

平成3年 (1991)

国の文化功労者に選ばれる。

平成10年 (1998)

12月30日 逝去。

平成13年 (2001)

7月1日浜松市旭町フォルテ内に木下恵介記念館開館。

平成20年(2008)

9月24日から休館。

平成21年 (2009)

12月5日旧浜松銀行協会内にリニューアルオープン。

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浜松市役所市民部創造都市・文化振興課

〒430-8652 浜松市中央区元城町103-2

電話番号:053-457-2417

ファクス番号:050-3730-2887

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